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第2回:みんなの健康

2024年2月16日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                     (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也



“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第2回:みんなの健康


みんなで渡れば怖くない

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という標語は、毒舌漫才で一世を風靡したツービートのネタの1つだ。信号無視という違反行為を切り取って、今どきでいうところの「あるある」、人の本質をえぐったこのネタは当時、大爆笑を誘ったものである。



最近はこの標語が“独立”して「ことわざ」のように使われているらしい。ツービートのことは知らなくてもこの標語は若い人でも知っている。類義の意味をなす「無理が通れば道理が引っ込む」といったことわざよりも映像がありありと思い浮かぶ点においてわかりやすく、社会が歓迎し受け入れたともいえるだろう。


さて。昨今の環境問題を鑑みるに私たちは資本主義という旗印のもとで、どうやら赤信号をみんなで渡り続けてきたようにも思えてくる。誰も空気を汚したいとか地球を温暖化したいだとか願っていたわけではなく、懸命に経済行動に邁進し続けることの帰結として地球がいま悲鳴をあげている。


今回はpublic health(パブリックヘルス)をとりあげてみたい。地球環境の問題もまた私たちの健康と大きく関係するものであり主たるアジェンダ(活動計画)の1つに数えられる。ここ数年間のパンデミックもまた然り、パブリックヘルス上の課題である。


公衆衛生=みんなの健康

Public healthという言葉を「公衆衛生」として日本語に翻訳された人を批判するわけではないが、healthという言葉は「健康」と訳されていることからすれば、「公衆の健康」のような翻訳でもよかったのかもしれない。また、publicの訳語である「公衆」というのも少し堅苦しいので「みんなの」といった翻訳はどうだろうか。パブリックヘルスのことを「みんなの健康」と呼称するようにすればわかりやすく、その賛同者もひょっとして増えてくるかもしれない。現状に抗う意図はないので本コラムでは「公衆衛生」と呼称するが、堅苦しく感じられる人のために敢えて今回は“公衆衛生(みんなの健康)”と表記してみよう。


また、「公衆衛生学」といったように学問領域としてのとらえ方もされる。確かに学問分野の1つでもある。ただ、人類の歴史を振り返ると公衆衛生に貢献した人たちが皆、学者だったということでもなく、むしろ社会行動家といった種の人たちが多いようにも思えてくる。その意味で公衆衛生(みんなの健康)は学問領域であり、一方で社会的な行動、アクティビティそのものでもある。


では、その公衆衛生(みんなの健康)に関連するテーマには一体どのようなものがあるだろうか、主要なテーマをいくつかあげてみよう。


(1) 環境問題

黄砂やPM2.5など、大気汚染が私たちの呼吸器にダメージを与えるという課題はよく知られている。工場の排気ガスや、水俣病のような公害問題など、環境がもたらす健康被害をあげれば枚挙にいとまがない。アスベストなどの身体へ影響がある、あるいは不明な化学物質の研究も公衆衛生(みんなの健康)分野といえるだろう。原子力発電所の事故による放射能の影響もそうだ。


震災そのものは現代の科学をもってしても正確な予知は難しく、「予知」の精度を上げるための研究は地球工学分野として整理されるだろうが、震災後のPTSD(心的外傷後ストレス障害)等は公衆衛生(みんなの健康)分野により近いだろう。


産後の鬱(うつ)リスクを軽減する因子として、「近所に公園があること」が有力だという研究結果を先日読んだが、地球温暖化や森林伐採とは別に、建築物や公園の設置、足の悪い人の移動手段、認知症の人の見守りなど、環境を改善することで成果を上げることができる公衆衛生(みんなの健康)の対策も多い。


(2) 感染症の問題

Covid-19によるパンデミックを経験した私たちにとって、感染症リスクを軽減することの重大性は自分事として身に染みたことだろう。疫学の始まりと認識されている1854年のロンドンにおけるコレラの大流行は疫学の起源として語られるが、他方、公衆衛生学(みんなの健康)の始まりでもあると認識されていたりもする。ただ、皮肉なことにこの事案に関して登場するチャドウィックは公衆衛生(みんなの健康)の父ともいわれる一方で、疫学の父ジョン・スノウの唱えた水によるコレラ感染の否定派の先鋒として登場する。この話はまたの機会としよう。


本コラムのタイトルでもある「疫学」と公衆衛生(みんなの健康)との関連性についても混乱しかねないので少し整理しておく必要性がありそうだ。簡単にいえば「ハッキリとした整理はされていない」といったところだろうか。(これでは全く混乱を防止しそうにない)


公衆衛生(みんなの健康)=疫学+生物統計学


といった方程式で整理している人もいるようだが、どうだろう。私は公衆衛生(みんなの健康)に関連した活動を科学的根拠に基づくデータを示すことで、より合理的なアクティビティとなるよう支援する方法論が疫学であると整理している。感染の拡大予測や政策の成否検証といった研究は疫学で、マスクの無料配布やワクチン接種の推奨といったアクティビティは公衆衛生(みんなの健康)分野ということになる。


(3) 不健康行動の問題

地球規模や社会的な視点の(1)(2)とは違って、より身近な問題としての「健康行動の促進」も公衆衛生(みんなの健康)の重要なアジェンダである。


公衆衛生(みんなの健康)の活動家は「健康によい食生活」「健康によい運動習慣」をどのようにして促進するのか、頭を悩ませている。この課題と対策との関係はユニークである。一般の病気は当人がそれを解決して欲しいと切望するものだが、不健康行動の問題は当事者が必ずしも解決を求めていないことが多々ある。要するに、公衆衛生(みんなの健康)の活動家は決まって“お節介”なのである。


不健康な行動、自堕落な生活をする人たちは社会的には課題であるものの、当人がお金を払おうという意思もないため、どうにも経済合理的なお金の回し方がうまくできない。結果として活動家らのボランティア活動に陥ることになりがちだが、それでは継続的に将来へ向けてずっとワークしそうにないという悲しさがある。


自堕落な生活は慢性疾患の大いなるリスク因子であり、食生活や運動習慣の課題に加え、禁煙や定期的な健康診断の促進なども各国が頭を悩ませている課題である。上述した通り当人がそれを望まない以上、対策を講じるには国や自治体がお金を工面するということになりがちであるが、抜本的な解決をするには福祉やボランティア精神に依存するのではなく、経済的にも合理性のある打ち手が望まれるところだ。


(1) 医療・リハビリ・介護の問題

「みんなの健康」である以上、医療行為はもちろんそこに含まれるのだが、医療上の課題は疾患ごとテーマごとに問題が複雑で、医療上の課題自体はあまり公衆衛生(みんなの健康)としてとらえる向きはみられない。


その一方でリハビリや介護に関する課題は公衆衛生(みんなの健康)の文脈で語られることも多く、どのようなアプローチが行動変容によい影響をもたらし、より対象者の健康や幸福に貢献するかといった研究もよく行われている。


また、環境の問題にも関わるが、リハビリセンターや介護施設をどこに設置したらいいのかといった課題や、高齢化社会が進んだ今、介護士の人材不足や労働条件の整備といったテーマもメディアを通じてよく見るようになった。


問題の図式が近しいということもあるせいか、医療分野にあっても看護の課題やプライマリケア、終末期医療は公衆衛生(みんなの健康)分野の課題として取り上げられることがある。障がい者の支援なども「健康」というテーマにストライクではないものの、類似課題として認識されることも多い。


(2) 資源配分の問題

前述した医療機関やリハビリセンターをどこに設置するかといった課題は、視点を変えると医療資源の配分の問題であることにも気づくことだろう。都会から遠く離れた地域での医療サービスを充実させることは経済の合理性とはあまり相性がよいとはいえない。


また、施設だけではなく医療、特に昨今は医薬品の高額化傾向が顕著であり、例えば費用が1億円と算出される治療を超高齢者に行ってもいいのか、といった議論が生じたりもする。「人の命は地球より重い」といった耳障りのよい発言は、政治家の人気をあげることには貢献しても抜本的な問題解決には全くつながらない。政策として足りない医療費を確保するために消費税を上げようか、などと言ったら人気の政治家であっても政治生命を絶たれてしまう恐れが生じそうだ。


国外に目を向けるならば、感染症問題などはむしろ発展途上国で深刻化することも多く、ではワクチンや治療薬を開発した製薬企業へ「人の命は地球より重い」などとしてそれを無償で提供することを強要するのは正しい打ち手なのかどうかはなはだ怪しくもある。こうした政策決定によって、仮に当該の製薬企業が医薬品を開発する気力が失われたり企業倒産の憂き目にあったとしたら本末転倒である。


(3) 貧困の問題

前述した(5)の課題が大いに経済学的な色彩であることは明らかである。経済学の視点で公衆衛生(みんなの健康)を目を向けるならば、資源配分とは別に「貧困は命を縮める」問題もある。簡単にいえば平均寿命は経済格差と強い相関があるというわけだ。


この課題は単にこれまでみてきた(1)~(5)の課題を別の角度からカテゴリにしているだけといえるのかもしれない。すなわち、貧しい暮らしを強いられている人は医療施設との距離が遠く、衛生面でも劣悪なため感染症リスクも高い。震災やアスベストのリスクも貧困層が高いだろう。体調が悪くても検診にいくこともなければ、お金がいくら掛かるかわからない病院へ行くこともためらわれることになる。


また、貧富の差が大きいことは犯罪被害のリスクを高めることになり、この場合は貧富に関わらず地域や国家単位で「犯罪被害」という健康リスクを高くすることになる。


一方、ある種の疾患においては地位や体裁をより重んじる価値観の高いお金持ちの人の方がむしろリスクが高いといった研究結果もみられる。自殺はうつ病の重症例ともとらえられるが、精神疾患全体が貧困層に多い一方で、社会的視点、スティグマ(差別や偏見)に耐えられないといった構図で大うつ病の発症リスクについては富裕層の方がむしろ高いといった研究結果もみられる。


「厚生」と「公正」

こうしてみてくると公衆衛生(みんなの健康)が様々な側面から脅かされていることが再認識できるだろう。本コラムのタイトルである「続・疫学と算盤」、つまり疫学と経済学の双方の視点が公衆衛生(みんなの健康)には密接に関係していることもみてとれる。


ところで、資源の再配分の問題は、経済学分野では「厚生経済学」の課題として取り上げられる。「厚生」とは私たちの生活を健康で豊かなものにするという意味で、つまりはその分野の経済学が厚生経済学である。


経済学分野であるが故に市場経済一般であるところの「神の見えざる手」、つまり価格などは市場が勝手に決めてくれる論を第一基本定理とする。その一方で、「厚生」の個性はむしろ第二基本定理の方だろう。へき地での医療施設設置や医師、看護師の配置はとても「神の見えざる手」に任せておいてうまくいくとは思えない。市場への介入などの「お節介」は第二基本定理として整理される。


例えば医療機関を設置するにしても先立つもの(=お金)は必要だ。治療費が10億円かかる人を1人救うために、1億人の日本人がそれぞれ10円ずつ出し合うことは正しい行いなのだろうか、といった議論は「厚生」に「公正」の色彩も加わる。


二酸化炭素を大量に排出し地球の温暖化に“貢献”しているのは日本を含む先進国であるが、その一方で海面が上昇し国土が脅かされるツバルやモルディブといった小さな島国は被害者であってもおよそ加害者であるとはいえない。自身に非がないにも関わらず、「健康」どころか自分の生まれ育った国でまっとうに「生きる」ことすらおぼつかないというのは不平等であろう。ここにも「公正」の問題が見え隠れする。


理想とする社会

社会学者デュルケームによれば、「社会」という存在は常に「理想」とする姿を見据えて存在するという。それは「現実vs理想」といった対立構造ではなく、現実の延長線の先に理想がありその地平線はつながっているものとして認識される。理想とする社会がどんなものなのかをまずは考えなければ公衆衛生(みんなの健康)は何をすべきか、その判断を見誤ってしまうということになりかねない。


さて、私たちが理想とすべき社会はどのような姿なのだろう。「みんなの健康」の「みんな」とは果たして誰なのだろう。いま一度、冒頭のイラストをよくご覧いただきたい。子供だけが立ち止まっている。集団登校、集団下校する子供たちが赤信号を渡る大人たちに惑わされることなく、青信号になるまで渡らずに待っている姿を見かけたことがあるハズだ。


“汚染”された世の中にあって、子供たちの姿はまるでパンドラの箱に残された「希望」のようにも映る。その姿はまた、公衆衛生(みんなの健康)の実践そのもののようでもある。


「続・疫学と算盤(ソロバン)」第2回おわり。第3回につづく




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