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第1回:いつまで働くのか

2024年1月15日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                     (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也



“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第1回:いつまで働くのか


令和6年能登半島地震

元日は私も帰省先の新潟にいたということもあって、連日報道されている能登半島沖での震災ニュースがより身近に感じられ心が痛む。宿泊先のホテルではエレベータが使えなかったり、断水ではないものの節水への協力を、ということでお風呂もシャワーも控えるよう頼まれたりしたのだが、これを“被災した”とは到底言えまい。幸い親族の命も実家の家屋も無傷であったのは、単に震源地からの距離が少し離れていたからでしかない。たまたま、ということだろう。亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、家族を失い帰る家を失った方々が一日でも早く笑顔を取り戻す日が訪れることを願ってやまない。



それにしても悲しいニュースが多い。震災のニュースの後にはパレスチナであったり、ウクライナであったり、多くの人の命が奪われるニュースが報道される。コラムなる存在はおよそ一服の清涼剤のようなものであって、良い意味で“とるに足らない”日常を切り取りながら、展開していくべきと心得てはいるのだが、このご時世にあってそのような論調はどうにも頭に思い浮かびにくくもある。また仮に思い浮かんだとしても今度は読者側である皆さんの心持ちがそのような塩梅ではなく、「けしからん」「不謹慎だ」と感じてしまわれるのではないかと思い悩む。


拙著「疫学と算盤」については36回目を一区切りとして昨年11月に無料ダウンロードが出来る電子書籍の形で出版させて頂いたところでもある。只今のご時世を踏まえ気軽な論調で執筆することがためらわれることを言い訳にして、いっそのこと前回を最終回とさせて頂くことが“正解”だったようにも思える。


その一方で疫学のコラムには何かまだ出来ることがあるようにも思えてくる。算盤(そろばん)、つまり経世済民というその本質的な意味での経済学も然りである。もちろん本格的に学びたい人であれば優れた学術書はたくさんあり、本コラムで得られる知識などたかがしれているとは思う。それでも初学者へ向けての学びのきっかけや興味の増進には少しばかりは役に立つのではないかと思い、再開をさせて頂くことにした。


再開第1回目となるテーマについては、私自身が只今、最も興味のあるところの「いつまで働くのか」についてである。前言撤回(?)も甚だしく、およそ疫学や経済学からは少し距離のある社会学ないしは哲学分野からのリスタートとなることをお許し頂きたい。


君たちはどう生きるか

スタジオジブリが社会実験的に「コマーシャルしない」戦略にて昨年上映されたアニメ映画「君たちはどう生きるか」は周囲の予想に反して大ヒットしたようで、日本アニメ初のゴールデングローブ賞も受賞した。ご存じの方も多いだろうが、このタイトルは元々、文筆家の吉野源三郎氏により作られた書籍でありその刊行は1937年、随分と古い作品である。


映画そのものは文学作品である「君たちはどう生きるか」を原作としているというものではなくオリジナルの脚本である。この書籍が映画の中に登場するのはワンシーンだけのことであり、集中していないと見逃してしまうかもしれない。それでも「君たちはどう生きるか」という言葉の響きにはインパクトがある。これまで、そしてこれから何十年経っても色あせない哲学の問題であり人生の問題であるともいえるだろう。

付け加えておきたいのは、この言葉を10代、20代の人が聞いたときと、私のように50代、あるいは60代、70代の人が聞いたときとでは受け取る意味合いが違うだろうということである。私は只今、大学院の学生として身を置いているのだが、自身の同級生である20代の人たちも多く、社会人経験のない彼ら彼女らを見ながら想起する「君たちはどう生きるか」は非常にしっくりとした響きである。


一方で自身の社内外の同僚、先輩と対峙しながら「会社を辞めてからどうしますか」「いつまで働きますか」といった挨拶代わり(?)の対話の中で想起する「君たち(あるいは私たち)は(これから)どう生きるか」というのは別の意味で難問である。


もちろん「生活費を稼ぐために」を動機として「働き続けるより選択肢が無い」と考えている人もいるようではあるが、日本の制度を鑑みるに贅沢をしないならば働かないで年金暮らしという選択肢も十分、検討するに値するという人も多いだろう。それ故に「どう生きるか」は難問なのである。


人生の意味の哲学

では、私はどう生きようか。人間存在についての考察は哲学分野に水先案内をしてもらうのがよさそうである。古くはアリストテレスによる「ニコマコス倫理学」にも関連した記載があり哲学分野としても長い歴史があるようだが、かといって学校の授業で「私たちは何故、存在しているのだろう」「何のために生きるのか」といった授業があるかと言えばそういった話は聞こえてこない。


ところが、ここにきて分析疫学分野では理路整然としたロジックで人間存在についての研究が盛んになっているようで、このテーマを「人生の意味の哲学」と呼称する*。もちろん、哲学分野のテーマそれぞれがそうであるように「人生の意味とは〇〇です」といったような正解が準備されているわけでも、押し付けられるわけでもない。あくまでこのテーマが様々な角度から分析され、この悩みに“つまずいてしまった人”への考える糸口を提供するに過ぎない。それすなわち哲学の役割といったところだろう。ここからいくつかのヒントを切り取ってみたい。


(1)呪われた問い

私なんか、生きている価値があるのかしら―

「人生の意味とは」という問いは、当該の哲学者らによると「呪われた問い」である。簡単にいえば「私が生きている意味は何か」を問うことは、何らかの悩みが生じたからなのであり、およそ小さな子供がそのようなことにつまずくことはないだろう。その意味において「出来るならばその問いをしない」が正解とも言えそうだ。その一方で、では果たして日常に忙殺されて「私が生きる意味」を一度も考えずに死を迎える人生の方が良い人生なのだろうかといえばそれもどうかと思える。やはり向き合わなければいけない問いなのだろう。


(2)問いのあいまいさをそぎ落とす

ここまでの記載ぶりに改めて注意を向けて頂くと、「いつまで働くのか」「君たちはどう生きるか」「人生の意味とは」といった表現をまるで同じ問いのように論じてきたが、それぞれには少しずつ違いがあることにもお気づきのことかと思う。哲学者ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という書を残しているが、哲学的な問いというのはときとしてそもそもナンセンスな問いであったり、単なる言葉遊びであって課題が存在していなかったりするのでよくよく注意が必要だと警鐘を鳴らしている。


同じようにして「人生の意味とは」という問いに内包されるところの多義性を整理する必要がある。「私が生きている意味は何か」という問いや、「意味のある人生にするにはこれからどうしたらいいか」という問いなどが入り混じっていたのでは誰かに相談するにしてもコミュニケーションエラーがしばしば生じてしまうので注意したい。


(3)自由の刑

「人間は自由の刑に処せられている」とは実存主義サルトルの有名な言葉である。スマホやパソコンを構成するパーツにはその全てにパーパス、存在意義がある。人工物の存在として例えば椅子ならば「人が座るため」を目的として存在し、また椅子を構成する部品である釘や板の1つ1つをとっても「材料をつなげるため」に存在する。パーパスのない部品など1つとして無い。


一方で人工物でないもの、例えば今回の地震はどうか。津波はどうか。吹く風や太陽はどうか。一部の宗教においては「全て創造者(神など)が作ったものでありそれぞれに存在に意味がある」というとらえ方もあるかもしれないが、一般的にいえば人工物のようなパーパスがクリアにあるわけではない。同じようにして、自然物たる人間は産まれおちてからパーパス―生きることの意味―を自ら獲得しなければならない。それは処せられている刑でもある。他人が正解を教えてくれるわけではないし、自分でその答えを見出さなければならない、という訳である。


(4)宇宙的無意味さ

広い宇宙を想起することで、目の前にある悩みが軽減されるという経験をしたことのある人は多いだろう。しかしながらその一方で、この広大な宇宙空間の中で「自分は生きている価値があるのかな」という気持ちを増幅させるという“副作用”もありそうだ。



宇宙規模の時間軸でみれば人類が地球に登場してからの期間は一瞬のことでもあり、恐らくは全人類が死滅する日はやがて来るだろう。そして人類が消えてからの年月の方が恐らく遥かに長いだろうことは想像に難くない。その意味において「広い視野で物事をとらえる」といったアプローチは、それが大きすぎるといらぬ虚無感が襲ってくる可能性があることを踏まえておきたいところである。


(5)反出生主義

「生きることは素晴らしいことである」を前提とするのは、“常識を疑え”を旗印とする科学的姿勢とはいえない。生きることは素晴らしいことかそれとも残酷なことなのか生まれる前ではそれは不明である、こうした前提から反出生主義は登場したのだろう。要するに「子供を産むということはそれすなわち非道徳的である」という立場だ。


もちろんこの意見には人間として実在している私たちとしては直観的に「間違っている」と反論したいところだ。この価値観を世界中が同意してしまうと、たちまちのうちに人類は死滅してしまうことになる。


一方であまりにも理不尽で残酷な経験をした人にしてみればこの考えに同調する可能性は十分にあるだろう。震災、パレスチナ、ウクライナ。罪のない人が命を奪われる。世界はあまりに不条理である。そもそも私たちは生まれてくる前に生まれることを「同意」せずにこの世に送り出されているではないか。人類がいなくなってから長い年月の経った地球を想像すると、案外とその世界は地獄絵図に思えない。


人生における意味

ここまで、哲学分野での議論を参考にして「いつまで働くのか」を考えようと試みたものの、どうにもポジティブ側が劣勢に感じられてしまうのは私だけだろうか。本腰を入れて哲学的に思考しようものなら、いつまで働くかどころか、今すぐにリタイアが正解となり、生きていることさえそれを肯定することが怪しくなってしまいそうである。


ひるがえって「いつまで働くのか」の問いに話を戻そう。この問いに限定するならば哲学的な視点の中では「(2)問いのあいまいさをそぎ落とす」ところが参考になりそうだ。つまり「人生の意味」につまずいている状態での問いにはいくつかあり、文字通りの「人生の意味(meaning of life)」での悩みと、「人生における意味(meaning in life)」との大きく2系統があるという視点である。


前者の悩みはまさに哲学的であり、あるいは思想学や宗教学分野の専門家に引き続き悩んで頂くとして、後者―意味のある人生にするにはこれからどうしたらいいか―については哲学者ではない私たちであっても、自分なりの“正解”を導きだせる可能性がある。不偏的な正解はなくとも、自分なりの答えは他の誰かにとやかく言われないですむ「正解」たりえるからだ。


例えば落語によく出てくるような朝から酒を飲んで自堕落な生活をしている与太郎と、疫学の創始者と言われるジョン・スノウやナイチンゲールとを比較すると、もしかしたら前者の方が大いに幸福なのかもしれない。しかしながら「人生における意味」としてみると見習うべきは後者だろう。もちろん「人生の意味の哲学」的にいえばその科学的根拠を示すことが出来ないし、少しばかり“優等生”的な考えであることは否めない。


それでも問いを「人生の意味」とはせずに「いつまで働くのか」とするならば、少なくとも私個人の拠り所として後者を見習いたい。あるいは初めから私にはこの考えが内在していていわば出来レース、茶番をこれまで論じていただけなのかもしれない。ただし、私が生きていくうえで最重要指標と考えていたところの「幸福」からすれば見習うべきはむしろ与太郎となるハズであった。与太郎の人生にも意味はきっとある。そのうえで幸福優先主義ではなく、ジョン・スノウやナイチンゲールを規範とするという選択は私にとっては大いなる発見でもある。


一方で、自分は果たしてそのような、偉人を規範として生きているような人間ではないぞという直観との違いに違和感を覚える。模範生、優等生は昔からあまり好きではなかった。いやそういうことではなく、ここでは単に「人生の意味」を考察していく中から自動的に導かれた答えだと受け止めることにしよう。あるいは私だけに限らず、多くの人がその働き続ける動機として、自身の幸福を最優先とはせずに「社会課題の解決」「貢献」「利他性」といった価値観をみすえているのかもしれない。そうだとすれば同じ人間として誇らしくもある。やはり私は反出生主義には賛成できない。


コラムのパーパス(存在意義)

キャリアオーナーシップという言葉をご存知だろうか。「いつまで働くのか」という問いはスマートな表現をするならば「キャリアオーナーシップ」と言い換えることが出来そうだ。


ひと昔前までは終身雇用が当たり前であった我が国においても、今や政府から副業や兼業、あるいはリスキリングといったように働き方や生き方の幅を広げるよう提案がされている。幸いにして私も今は会社勤めをしながら副業として企業のコンサルティングやこうしたコラムの執筆、一方で大学院に学ぶ機会を得たりと、つい数年前には考えもしなかったキャリアを自分で選べるようになったことに感謝している。


コラムの存在意義を端的にいえば「読んでくださる人の存在」が絶対条件として必要となる。私だけに「いつまで書くか」の選択肢があるわけではない。そのためには「次回も読んであげてもよい」と思って頂けるようなコラムを継続的に提供し続けることを念頭におかなければならない。これがコラムニストとしての私の使命だ。


そして私のコラムを読んでくださる人が疫学分野に興味を持ち、社会課題の解決に貢献してくださるなんてことがあればそれが何より、私のアシストも「社会への貢献」につながることになる。これが本コラムの狙い、パーパスである。


さて。そうだとすると今回は失敗作であったか。読了されてみて興味をそそる学問領域があるとすればそれは「哲学」であってどうにも「疫学」ではなさそうだ。やれやれ。「続・疫学と算盤」の第1回がこれでは、我ながら行く末が思いやられる。


*「人生の意味の哲学」(森岡正博、蔵田伸雄)春秋社2023より


「続・疫学と算盤」第1回おわり。第2回につづく





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