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第17回:資本主義の探訪

  • 執筆者の写真: Erwin Brunio
    Erwin Brunio
  • 4月25日
  • 読了時間: 13分

2025年4月24日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                     (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第17回:資本主義の探訪


財テクの失敗

  株で大きな損失を出してしまった。といっても、このところの”トランプ・ショック“、相互関税実施の影響にて大きく揺らいだ金融市場とは全く関係がない。購入した当該の銘柄の株価がわずか1か月で売った時には3分の1に暴落し、あっという間に100万円近くの損失となったのである。

お話の顛末にもう少しだけお付き合い頂きたい。当該の会社は2000株以上の株所有者に年額としてQUOカードpayを12万円分提供すると発表し、その株価は300円ほど。つまり300円×2000株=60万円の投資で年額12万円もらえるのであるから、年利として20%となる。配当の高い銘柄だけしか買わない私にとってこれはちょっと無視できる話ではなく、2000株を最大限、家族2人分購入したのが昨年末のことである。ところが、そのひと月後「株主優待を廃止します」という発表があり、株価が大暴落したというわけである。


株主優待を実施する、とした会社が一度も実施しないで、なかったことにする―。ほぼサギ被害にあったような気分であって、果たしてこのようなことがこれからも許され続けるとしたら絶望的である。もう二度と発生しないよう東京証券取引所も管理監督する責任もあるように思えるのだが、とにかく今回失ったお金が戻ってくる見込みは無さそうである。本コラムを読まれている人の中にも私と同じ被害にあった人がいたならば、誠にご愁傷様であり、また、被害にあっていない方に向けては、“株主優待サギ”にご注意くださいと言うより仕方ない。とはいえ具体的にどう注意したら防げるのかは全く思いつかないのだが。


さて、株をはじめとした元本が保証されないリスクを伴う金融商品については、「とても興味がある」という人か、あるいは「全く興味がない」という人に二極化するようだ。特に日本は他国からノーリスク主義と言われ、後者の人も多いと思われるので本コラムで取り上げるのもどうかと思いつつ、負の熱量(?)を逆手にとって、資本主義の話を今回は取り上げてみたい。「疫学」要素のない、ピュアな「算盤(そろばん)」の話であることをあらかじめご容赦願いたい。


貨幣の成り立ち

金融を中心とした現代の資本主義は、「金融資本主義」とも呼称されるのだが、もっぱら定期預金ばかりで株などをしない人にしてみると、ピンとこない呼称だろう。資本主義を理解して頂くためにお金の成り立ちから始めたい。


大昔の人類は、欲しいものを物々交換していたが、それではあまりに非合理ということで「貨幣」の概念が登場する。最初は貝殻であったり、石に借用書のような内容を掘ったりしていたというが、持ち運びに便利ということから金や銀といった鉱物にやがてそれが置き換わった、というのが学校で習ってきたお話である。


貨幣(お金)は持ち運びやすいことだけではなく、「タイムラグ」にも当初から利便性があったといえる。春に収穫した魚や海産物を提供した見返りとして、秋に収穫した農作物を受け取る。物々交換では不可能な“時間差”での交換が出来るようになったのは、貨幣による恩恵だ。この「タイムラグ」の性質は現代のお金にも受け継がれており、貯蓄があれば時間に縛られず欲しいものを手に入れることが出来る。これを我々は「自由」と呼び、自由を手に入れたくてお金を貯めこむのである。自由がないと、たとえ嫌な会社であっても辞めることがためらわれ、結婚や出産、あるいはその逆に離婚したい、といった願望を実現する自由が棄損する。これが資本主義「らしさ」であり、資本主義社会の厳しさでもある。


鉱物を貨幣として取り扱っているのは現代でもそうであるが、難点は地球上の鉱物には限りがあるというところにある。金(きん)が枯渇することが認識されだした時代には別のものから金を作れないか、という錬金術なる無謀なチャレンジが活発化したことはよく知られている。


さて、物理的な鉱物はその物質の価値に加えて「お金」という新たな価値を身にまとう。そんな中で、「貨幣は別に鉱物じゃなくてもいいのではないか」ということに気付いた人類は、やがて金本位制度から脱却し今のような紙で作成された紙幣までも「貨幣」と認知するに至っている。「金(きん)」ではなく、単なる「紙」でしかないのに、だ。


こうした流れを鑑みるに、最近では仮想通貨だとか暗号資産だとか、お金による「資産」とは別モノも登場してきていることが自然な成り行きに見えてくるだろう。硬貨であるとか紙幣であるといった貨幣もまた、その昔の石に掘られた借用書のような“古臭さ”が認識されて久しく、給料を未だ現物支給しているような会社があるとしたら、それは驚きだろう。この先さらにIT技術、特にネットワーク技術やセキュリティ技術が進歩したならば、「お金」は少なくとも物理的には必須ではなくなる。あるいは既にその時代が到来したとも言えようか。因みに、暗号資産の市場規模は既に380兆円に達している(2025.4.18.時点)*。


定義不能な資本主義

本コラムでもしばしば「資本主義」という言葉を使わせて頂いているが、貨幣の本質が概念であるように、資本主義というのもまた実態がない。希代のインフルエンサーである成田悠輔さんは資本主義について、下記のように説明している。


中身が変幻自在に変わっていくこと、だんだん捉えどころがなくなっていくこと、

そして固まった定義からひたすら逃れ続けること、それこそ資本主義の本性だ

(「22世紀の資本主義」文春新書より)


つまり、今ここで頭をひねって上手に表現すれば資本主義を定義できるとしても、それは束の間のことだというのである。であるならば、頑張って定義することをしないで、時代の流れを追従することで、その流れ全体としての「資本主義とは何か」をとらえてみる方が筋が良いだろう。


今年の大河ドラマは江戸時代の商人、蔦谷重三郎が主人公である。重三郎の生きる江戸時代にあっては封建制度下であり、今のような金融市場なる概念は存在しない。また、職務は変更の自由が許されてはいなかったものの、お金を貯めこむことは許容されていたようである。つまり「商人資本主義」のような世界観が、恐らくは商人の世界には存在していたのではないかと思われるのである。端的にいえば、お侍さんはエライけれど、その職業に就くことが許されない商人の中にあっては、現代と同じように「お金持ちは(お金のない人よりも)エライ」、という価値観が封建制度下の当時であっても商人の世界にあっては一足早く芽吹いていたというわけである。


ただ、ここで少し断っておいた方がいいかもしれない。「お金持ちはエライ」という価値観自体は資本主義というよりはむしろお金を崇拝する、という意味で拝金主義と表現した方が正しい。もちろん、私たちの住む現代にあっても「資本主義=拝金主義」的な捉え方は大きく間違ってはいない。しかしながら資本主義らしさとは何かと考えてみると、そこには金融であったり金利であったり株式会社であったりといった、様々な色彩(概念)が加わる必要がある。


資本主義誕生の源泉

その「らしさ」という視点でみれば、鎖国時代の日本では知る由もなかったところの大航海時代と以降に続く工業化・産業革命の流れが、資本主義社会を形成するうえでの“本流”と言えるだろう。大きな船を出して外国と貿易をすると、その事業は国内事業と違ってケタ違いの大儲けが出来る。また一方で、未開拓の土地を奪い原住民を追い出したり、使役を強制したりすることで大儲けする“拝金至上主義者”も現れてくる。マルクスは資本主義の歴史を「血塗られた歴史」と表現しているが、血や暴力の話に踏み込むと、お話の“本流”に戻れそうもないので、今回はシンプルに船が沈没してしまって大損をするという、船による貿易のリスクをどのようにケアするのかという話にだけスポットを当ててみたい。

このハイリスク・ハイリターン事業を進めるにはどうやら一人の大金持ち(資本家)が全額出資するというのは難しいことだったようである。何人かのお金持ちが出資するということから「株」という概念の原型が生まれる。1隻の船だけで考えればそれが無事に航海を終えて帰ってくるかこないかはハイリスクであるが、もしも100隻の船に対して現代でいうところの“分散投資”を皆ですれば、まず大損することはないという理屈である。ドライに経済だけをとらえればこういう理屈であるが、船の沈没や海賊による強奪は多くの命を失うという悲劇でもある。多くの人に恩恵をもたらすが、まれに甚大な副反応や副作用をもたらす医薬品やワクチンと構図が似ているといえるのかもしれない。


さて、やがて大航海時代の後半には東インド会社なる「会社」が生まれる。以降、産業革命が起き、鉄道が走るようになった頃には、株式を売買する「金融」という概念が認識されるようになる。鎖国していた日本ではまだ拝金主義的な資本主義の芽吹きでしかなかったが、このようにして西洋では既に19世紀に現代的な資本主義が出来上がっていたと言ってよいだろう。もちろん、先の成田氏の言葉を借りるならば資本主義の定義は固定化されておらず、いわば「産業革命時代の資本主義」あるいは教科書的には「工業化資本主義」と呼称するのであって、現代の資本主義とは完全にはイコールではない。


さて、当時の日本ではどうだったかといえば、前述した通り「商人資本主義」と呼称することは可能かもしれないが、現代のような金融資本主義には程遠い。敢えて資本主義的に当時を表現するならば、家長制度、つまり家(イエ)が概念化され、長兄がそのイエを継ぐ、奉公人が同じ家屋に住む、いわば「家長資本主義」、あるいは現代的には「経営者資本主義」の時代とした方が日本の特異性を表せるのかもしれない。一方で、“万国共通”の金利の概念は登場しており、盲目の人に優先して金貸し業を営むことを許した「座頭金」なる政策は大河ドラマでも描かれている。金貸しが儲かるのは、ご存知の通り返金時に上乗せされる利息であり、これは資本主義社会にあって欠かせない概念である。海の向こうでは“金貸し”がスマート化され「銀行」が登場するのであるが、日本での銀行業は渋沢栄一らの登場を待たなければならない。


会社は誰のものか

ところで、東インド会社を第一号として世の中に登場してきた「会社」とは何か。よく「会社とは誰のものか」と問われるのであるが、少なくとも私が学生だった頃はその正解として「会社は株主のもの」と教わったものである。確かに大航海時代にあっては船長さんが一番エラいということはなく、エラいのはその事業に莫大なお金を投資した人だと認識するのは自然である。しかしながら、令和の時代にあって会社は株主のものであると認識している人は一体、どれくらいいるのだろうか。


会社が株主のものだという観念が薄らいだのは株式等を自由に売買できる金融市場の登場も大きかったことだろう。自由に株式を売買できるのであるから、たとえ今この瞬間においての大株主が、では明日もなお大株主だとは限らない。それどころか、一般の株を売買している人たちの価値観はおよそ会社を(一部)所有しているなどというものではなく、端的にいえばギャンブルの一種、投資というよりもむしろ投機に似た捉え方の人の方が多いかもしれない。


先日、投資家として世界一有名なウォーレン・バフェット氏のWeb記事があり*、興味深く拝読させて頂いたところである。「バフェット効果」なる言葉もあるように、彼の購入した銘柄は、それがニュースとして流れるだけで株価が急騰する。もちろんのことであるが、94歳となる大金持ちの彼が、お金を儲けなければ将来が不安だ、などということは決してない。それどころか、若い頃から彼の生活は質素であり偏食ということもあってか、お金の使い道も無く、もっぱらマクドナルドのハンバーガーばかり食べているという。では、何故に未だ現役の投資家であり続けるのかといえば、その動機は自身の投資スキルに期待をかける株主に対しての恩義だというのである。


これこそが「会社は株主のもの」を体現している、経営者の姿勢であり価値観であるといえよう。また一方で、本記事の副題は「株主資本主義の“ラスボス”を直撃」とあった。いまやバフェットのように「会社は株主のもの」とする考え方は終息を迎えつつある。


パーパス文書なる存在をご存知だろうか。アメリカの経営者団体「ビジネスラウンドテーブル」が2020年に発出した声明である*。


Business Roundtable Redefines the Purpose of a Corporation to Promote ‘An Economy That Serves All Americans’

(ビジネスラウンドテーブルは、企業の定義を「全てのアメリカ人に奉仕する経済」と再定義する<著者和訳>)


この声明に署名した181人の中にはアップル、アマゾン、ゼネラルモーターズなど名だたる大企業の最高経営責任者が含まれている。私たち日本人にしてみれば“アメリカ第一主義”の色彩が気になるところでもあるのだが、この声明が出る以前からも、既に会社は株主のものではないだろうという議論や価値観が優勢になっていたと思われる。すなわち、会社は誰のものかと問えば、それは商品やサービスを受ける顧客であったり、あるいは人間ですらなく自然環境であったり、こうした有形無形の“関係者の全て”が所有者なのだと。この考え方は「ステークホルダー資本主義」と呼称する。


こうした捉え方もまた一過性のものであって、10年先も同じ定義だとはちょっと想像しにくくもある。それどころか100年先の未来に今と同じような「株式会社」という概念や制度が残っているとも思いにくいところではある。因みにその昔、「有限会社」という呼称もあったがこちらは制度として2006年に終焉を迎えているので今の学生は有限会社なる名称を聞いたことがないかもしれない。故に未来の子供たちが「株式会社」を知らない、聞いたこともない、ということになっても不思議ではない。


トランプ・ショック

貨幣、株、金融、金利、会社。あるいは資本家に投資家。虚構や妄想を信じられることが出来たことが、私たちホモサピエンスが生き残ったとするのは「サピエンス全史」の著者、ハラリ氏である。確かに資本主義の本質を探訪してみても、出てくるのは物品ではなく様々な概念である。会社もオフィスという物理的な存在はあるものの、リモート社会の到来によって本社や支店の存在は実態がなく住所という概念でも構わないことに私たちは気付かされてしまった。以前は紙媒体で登場していた「株式」がもはやモノとして可視化できなくなったように、貨幣もまた仮想通貨のようにして実態は溶けてしまうと想像する方が自然なのだろう。


また、本コラムがテーマとしているところの「疫学と算盤」は、有り体にいえば「命とお金」のお話であり、私たちの生活や幸福感にとって欠かせない2本柱である。しかしながら一方で、お金は増やすことが出来ても、現代の最新科学にあってもなお命の方はそうもいかない。何億円、何兆円の貯金があっても200歳まで生き続けることはまだ不可能であり、だとすると死にゆくときに莫大な貯金が残るというのは非合理的である。あの世には1円たりとも持っていくことが出来ない。コスパを求めて経済活動を効率化し、その勝者が貯蓄を増やすというのに、結果としてその帰結が非経済的というのは何とも皮肉である。


株もお金も全ては虚構であるし、死後の世界に持っていくことが出来るわけでもない。そのように考えると“株主優待サギ”による損失など、気にするようなことではない・・・。そんな風に無理やりにも自分に言い聞かせていたところ、例のトランプ・ショックにて株価が暴落し、ひと月も立たないうちにその数十倍の損失を被ることになってしまったのである。


こうなってしまうと、もう自分に言い聞かせるまでもなく、冒頭の損失が本当に気にならなくなってしまった。めでたし、めでたし。ん?


*MINKABU(みんかぶ)サイト


*ダイヤモンド・オンライン「意外と無欲なウォーレン・バフェットが投資を続ける理由」


*Business Roundtable



「続・疫学と算盤(ソロバン)」第17回おわり。第18回につづく



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