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第33回:街ぐるみの医療

2023年6月1日

2020年10月20日から、3週間に1回、大手製薬企業勤務で“えきがくしゃ”の青木コトナリ氏による連載コラム「疫学と算盤(ソロバン)」がスタートしました。

日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボWEBサイトに連載し好評を博した連載コラム「医療DATAコト始め」の続編です。「疫学と算盤」、言い換えれば、「疫学」と「経済」または「医療経済」との間にどのような相関があるのか、「疫学」は「経済」や「暮らし」にどのような影響を与えうるのか。疫学は果たして役に立っているのか。“えきがくしゃ”青木コトナリ氏のユニークな視点から展開される新コラムです。

                     (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也



“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム

「疫学と算盤(ソロバン)」 第33回:街ぐるみの医療


暮らす街の選択

在宅での仕事やオンライン会議といったリモート技術の活用は、悲しいかなコロナがその促進に貢献したといえるだろう。多くの命を奪ったコロナが私たちに恩恵をもたらしたという皮肉には目を背けたくもなるが、人類の歴史にあっては戦争により科学技術が進歩したり、経済が活性化したりするという皮肉は有りがちで、何も今回に限ったものではない。


ともあれ、ホワイトカラーの全てとは言わないが、少なくとも私のようなデータ解析系の職務に就いている人は必ずしも職場から近い場所に住まなくてもよくなった、という人も多いだろう。もちろん、パンデミック明けの今後は職場へ物理的に出社する回数も増えるだろうし、このところはリアルに現地に赴いて講演させて頂く機会も戻ってきた。それ故、さすがに地球の裏側に住むわけにはいかないのだが、用事のある時に職場や現地へ行けるのならば、もはや住まいは勤務地の通勤圏に限定されるものではないだろう。

私が住んでみたいと以前から思っていたのは、俗にいうスローライフほど大自然に囲まれた生活というものではなく、名古屋圏であったり、関西圏であったり、東京圏ほどではなくとも、やはり相応に生活の便には困らないところだ。関東圏にはない、違う文化の中に身をおいてみたい。海や山に近いところにも憧れがある。


そんなことから先日は琵琶湖畔を散歩してみたところである。海沿いではないが、広い水辺が見渡せるし京都や大阪にも出やすく、自動運転の社会実装にも積極的だと聞く。この辺りで暮らしてみたいと思っている。とはいえ東京にある自宅はその利便性が捨てがたく悩ましいところでもある。


先回は医療系スマホという、パーソナル(個人)な視点での医療技術の進歩を眺めたところであるが、スマホアプリや自動運転といった技術の進歩を生かした街づくりプロジェクトも盛んである。街の求心力が上がれば人が集まり人口減少の課題も改善する。また、街づくりプロジェクトの中にあっては医療機関の招致といった大げさなものではなくとも、少なからずヘルスケアに関する活動はまず含まれるものである。今回はヘルスケアに関する活動を中心に街づくりプロジェクトの現在地を概観してみたい。


スマートシティ

以前であれば「街づくり」と呼称されていた都市計画のことを最近ではスマートシティとかスーパーシティと呼称するようになったようである。その定義はやはりキッチリとしたものではないが、「スマート=賢い」ということであるから、基本的には科学技術の導入による都市計画といったところだろうか。


こうしたスマートシティ計画についてはご推察の通り、本コラムのテーマである医療とイコールということではなく、医療はあくまでその計画の一部といった位置づけとなる。感覚的にいえば不経済な箇所に科学技術を使って少しでも経済的にすることが、まずはパーパス(目的)、第一義の存在意義といえようか。そのパーパス達成に向けた個別の事案として、犯罪防止や地球環境の保全と一緒に医療を含むヘルスケアがテーマとして鎮座する。


スーパーシティという呼称は政府が主導する未来型都市をこのように呼称したことで広まったもののようではあるが、「スーパー=超」ということなので、“超都市”というのはイメージが曖昧なところがある。最近では新たに「デジタル田園都市」なる構想も登場してきたことから、この呼称は絶滅危惧(?)感が出てきており、生き残れるかどうか危うさもありそうだ。


デジタル田園都市

政府が掲げるスーパーシティ構想とデジタル田園都市構想とは、具体的にどのようなものかについても少し整理しておこう。スーパーシティという呼称が曖昧なのに対して「デジタル田園都市」の方は少なくとも「デジタル」であり、「田園」である。デジタル技術を利用するが、それでも田園都市である状態は維持しよう、という狙いが少なくとも「スーパーシティ(超都市)」よりは明瞭となった。


因みに、デジタル田園都市の前身(?)ともいえそうなそのスーパーシティについては、政府がその未来都市づくりを目指す自治体を2020年12月に公募したところ、31団体が応募したという。それぞれどのような街づくりをするのか、その提案内容をネット上の情報から閲覧することも可能である*1,2。

シロウトの私にとって、各団体から提案された街づくりはそれぞれに魅力があり、出来ることならば全て採択して頂きたい、なんて思ってしまう。ただ、実際のところ選定されたのは茨城県つくば市と、大阪府・大阪市のわずか2自治体である。この狭き門の事情はどうやらお金の問題だったようで、スーパーシティ構想にあてられた予算が7億円程度だったことから、これではいくつもの団体を採用するわけにもいかないだろう。


一方のデジタル田園都市構想は、その推進のための交付金総額が200億円とケタ違いに大きく、より多くの自治体が都市計画を進めていけそうだ。もちろん、スーパーシティ構想で落選した団体もその方向性が「デジタル×田園」であるならば “敗者復活”も可能だろう。


弘前COI

さて、こうした都市計画の中でも特にヘルスケアの色彩が強いところはどこかといえば、弘前COI(Center of Innovation)*3と呼称されるプロジェクトが挙げられるだろう。この呼称は2013年に付与されたものであるが、プロジェクトの発足自体は2005年とかなり古い。平均寿命の都道府県別ランキングにおいて、青森県が例年最下位であるということから「短命県返上」を旗印に発足したというから、ヘルスケアとの関連が強いのは自明ともいえよう。


データ分析を専門とするアカデミアの先生方もプロジェクトに関与し、また弘前市を中心として住民の皆さんが医療系データを提供している。中でも3000項目にもおよぶ質問項目をデータベース化した、「超他項目ビッグデータ」なるプラットフォームなどは自ら「世界で唯一無二」と評している優れモノだ。


一方で、残念ながら青森県は最新のデータ(2020年、公表は2023年1月)でも未だ全国最下位を脱出できていないことも隠しようのない事実である。弘前COIとして立ち上がってから10年になるが、ハッキリとした形で目に見える成果が出ていないのだ。もちろん、我々日本人にとってみれば青森県が最下位から脱出した日をもってめでたし、めでたし、という話ではないし、他にどこか別の都道府県に最下位になってほしいと願うのもおかしな話である。何より弘前COIへの期待は他の自治体が同じ政策を模倣したくなるような、規範となるアプローチの提案にある。具体的な成果が出てくることが待望される。


MBT

奈良県立医科大学が中心となって活動する、「医学を基礎とするまちづくり」、MBT*4はヘルスケアの中でも特に医療の色彩の濃い街づくりプロジェクトである。そもそも名称となっているMBTというのがMedicine-based Town、まさに医学を基礎とする街づくりというコンセプトである。


サイトには「すべての産業に医学の光をあて、医学による産業創生を図ります」「今まで患者と1対1にしか使ってこなかった医師・医学者・看護師等の知識を産業創生、まちづくりに活用します」とある。ここまで“医学中心”に振り切っているのは他に例がないだろう。


具体的な取り組みとして、同大学のある奈良県橿原(かしはら)市を「医療を基礎とする街」モデルとして他の自治体にも展開しようという活動を行っている。前回とりあげたような医療系のウェアラブルを使った研究等も盛んであり、その活動はすでに橿原市を超えて賛同する各自治体に広がっている。


また、医療系に限らない民間企業との連携も進められており、住みよい家づくり、健康によい住環境、前回取り上げたSaMDのような健康見守り機器、高齢者に優しい移動手段や歩きやすい環境づくりなどの研究も盛んである。


目指すべきゴールは何か

こうしたスマートシティ構想とは別に、街ではなく私たちが暮らす住居に視点をおいた活動も行われており、こちらはスマートシティならぬ、スマートホームと呼称するようだ。その活動は、人の動線なども踏まえて階段の格段の高さや奥行き、テーブルの配置、あるいは家電製品の電源On/Offにてそこに住む人が日常動作をしている(ありていに言えば「亡くなっていない」)ことをリモートで確認する、といったことの研究実施等である。


こちらもまたスマートシティ同様、生活の効率性向上や地球環境の保全といった目的とともにヘルスケアがテーマとなっている。その意味では本コラムにてスマートシティやスマートホームの全容にまで深堀りするのはテーマから脱線していきそうなので、一旦は表面的な整理に留めておくことにしよう。


一方で、こうした取り組みの究極のゴールは何かといえば、それはやはり「スマートシティ、スマートホームに暮らすことで私たちは幸せになる」ことだろう。実際に、エコカーや活動支援ロボットといった環境面や機能面でのみ科学技術が使われているだけではなく、安らぎを与える系のロボット型ペットの利用なども研究されている。何れはこうした取り組みから精神医学あるいは心理学分野由来の発見や研究成果も出てくることだろう。私たち個人としてもまた、自身が高齢になり、歩くのが億劫になったり目や耳の機能が劣化した将来において、どのような住環境を望むのかを考え提案することも大切である。


また、仮にゴミのポイ捨てや違法駐車などが減っても、一方では「私たちの行動が監視されている」という気味の悪さが悪影響をもたらすかもしれず、その点では社会哲学や倫理学の視点も問われることになる。実際のところ、カナダのトロント市で進められていたスマートシティ計画はこうしたプライバシーやデータ収集に関する懸念が浮上し計画が中止されている。街が賢くなる、ウェアラブルデバイスが普及するといったことで、認知症患者が居なくなってもいち早くその居場所を見つけることは出来るようになるだろう。ただ、その一方で私たちの幸福度が必ず向上するということでもないのである。


住む街、訪れる街

琵琶湖湖畔を散歩した翌日は、京都にて例の空也上人立像のある六波羅蜜寺などを観光して回った。どうやら今年の「京都へいこうキャンペーン」ではこの空也上人の像がフューチャーされたようだが、大々的なコマーシャルが流れる前だったためか、あるいは海外からの観光客がコロナ前の7割程度であるということか、少なくとも私が六波羅蜜寺を訪れたときは混雑していないタイミングでゆっくりとみることができた。

やはり京都はいいな、なんて思う一方で、会社の先輩がいうには「京都は住むところではなく、観光するところ」なのだそうだ。古くからの都に住む人には相応のプライドがあり、新しく住もうという人には少しばかり排他性のようなものがあるということだそうだが、実際のところはどうなのだろう。いたずらに京都に在住の方の気分を損ねたいわけでもないのだが。


他方、別の意味で「京都は住むところではない」ともいえるかもしれない。報道筋によれば、住居の高さ制限が京都市では厳しく、東京のように高層マンションを林立させることは許されない。結果として住める人数が限定され、価格の高騰から若い人は近隣に住む人が続出しているという。


なるほど、景観を保つために制約を設ければ住みにくくなって若い人が住めないというのでは困ったものだろう。とはいえ私も京都の中心街に高層マンションを建てて欲しくはないし、京都の街中で企業カラーを控えめにしている店舗を見つけるとほっこりしてしまう。景観は大切だ。


効率化の一方でその街らしさを残す、監視はされてもプライバシーは侵害されない、といったバランスの中で「よい街」を作るというのは、医薬品における「効く薬は効かない薬よりも優れる」という“単細胞”とは違う難しさがある。「よい街」という絵姿が人によっては色々と違ってくるものであり、そこに街づくりの難しさがあるといえるのだろう。


あちらを立てればこちらが立たず。水辺で和む生活は都心での利便さをあきらめるということでもある。さて、どこに住もうか。


第33回おわり。第34回につづく


*1:内閣府国家戦略特区

*2:公募のあった自治体からの提案内容

*3:弘前COI

*4:奈良県立医科大学

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