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第29回:言語学的な疫学論考(2)

  • 6月5日
  • 読了時間: 13分

2026年6月5日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                 (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第29回:言語学的な疫学論考(2)


朝が弱い

私の朝の弱さはもうずっと昔からのことである。起きて一時間、ときには二時間ほどはボーッとしていて、自分でも何をしているのかハッキリと認識できていない。ほとんど発声もしないし、恐らくずっと無表情に違いない。


今朝はベーコンエッグを作ってもらったのだが、普段とは違い、パンではなくご飯と一緒だったので、いつもの塩コショウではなく醤油で食べようと思った。それも目玉焼きの方をご飯にのせて食べてみると美味しいかもしれない。それくらいの意識はある。


しかしながら、案の定である。ボーッとしたまま醤油の瓶をご飯に向けて傾けると醤油の口がかなり広かったせいもあってドバドバと大量にかかってしまった。大ピンチである。どうにか焼きのりなどを駆使して美味しく頂いたところであるが、普段よりも塩分の接種は倍ほどであったに違いない。



そういえば「大ピンチずかん」なる絵本がベストセラーだと聞く。最新のシリーズ第3巻の表紙はケチャップをかけようとした子供がケチャップの“爆発”にみまわれ、顔にかかったイラストが描かれている。確かにこれは“あるある”である。


とは言うものの、醤油ドバドバとか、ケチャップの“爆発”をもってして「大ピンチ」として良いのかどうかとも思う。本来、大ピンチなるものは例えばウクライナであるとか、ガザ地区であるとか、そういった戦火や震災にこそ相応しいようにも思える。せめて「ピンチ」くらいにしておいて方がよいのかもしれない。


今回は「薬害」について取り上げたいと思うのだが、過去には多くの悲劇があり、困ったことに本コラムの「おふざけ」とは決して相容れないテーマでもある。そもそもウクライナやガザ地区を「大ピンチずかん」と重ねて書くといったように、本コラムは存在そのものが不謹慎なのかもしれない。その点をお詫びしつついつも通りの論調で、そしてまた前回から引き続く「言語学」の視点から薬害問題の本質に迫ってみたい。


薬害エイズ

先月(2026年4月20日)の日経新聞夕刊では「薬害エイズが折ったペン 訴訟和解30年」とタイトルされた記事が掲載されたところである。サブタイトルに「19歳、桜の絵残し無念の別れ 遺族の怒り今も消えず」とある。「薬害エイズ」とは血友病治療の血液製剤によって多くの血友病患者さんがHIVに感染したという痛ましい事件である。私も人の親であり、遺族の悲しみはいかばかりかということに思いを寄せると決して冷静ではいられない。一方で、この「薬害」なるものを根絶するには私のような薬剤疫学分野の人間の関与が必要不可欠でもあり、それは同情や共感の延長にはない、むしろ数多の感情を抑え込んだ先での冷静沈着な洞察と分析力の発揮が必要となろう。あまりに共感力の高い医師や看護師は“燃え尽き症候群”に陥るとも聞く。薬剤疫学の実践家にあっても、共感や同情は職務の邪魔することがあるというわけだ。


ところでその「薬害」である。定義があるようでない。英語にも合致する単語がない。しかしながら「薬害エイズ」や「薬害スモン」といえば日本では通じるのである。これは何故なのだろう。この点が言語学の視座からみた薬害根絶を妨げている原因だと私は見ている。果たして読者諸氏が考える「薬害」の定義とは一体、どのようなものだろうか-。


mRNAワクチンによる副反応死

先般のコロナによるパンデミックから世界を救ったのは何であったか。社会的な問題の解決には様々なパラメータが入り組むものであって、それは一人のヒーローでも無ければたった一つの決め手というものではないし、果たしてどれが一番寄与したのかを証明することが出来ないのが常である。ウィルスなる生命体が延命を図る戦略として、宿主となる人間が死んでしまっては困るということから、時間を追うごとに人間と共存しやすくなる(人間界の言い方でいえば毒性が弱まる)、つまりは「時間が解決したのだ」という見方も否定出来るものではないだろう。


一方で、「パンデミックの終焉にもっとも貢献したのはmRNAワクチンである」と考える人も多い。思い出されるのは出口の見えない暗闇の世界で、ワクチンの登場は世界中から切望され、また上市された後でも優先的に接種できるラッキーな人は誰で、果たして自分はいつ接種できるのかという騒ぎになったことである。


イスラエルの研究によれば、ワクチン非接種であったならば感染していたであろう人の90%~95%の人が感染を免れたとされる。その一方で、副反応の発生も知られている。因みに医薬品の場合「副作用」と呼称するような望ましくない生体反応はワクチンでは「副反応」と呼称する。多くの人は接種後に発熱をしたという経験をお持ちだろうが、発熱した人が薬害あるいはワクチン害に見舞われた、と言っても間違いとは言い難い。何故ならば薬害というものの定義がないからである。


他方、より薬害のニュアンスに近いのはワクチン接種後の心筋炎による死亡であろう。イスラエルの研究ではおしなべて10万人中では2人、特に16歳~29歳の男性においては10万人中11人が発生したという。副反応と副作用。言い方を区別することによるメリットはよくわからないが、少なくとも何らかの病気に罹患しての医薬品投与による副作用よりも、健常人が予防のためにワクチン投与して生じる副反応の方が理不尽といえるかもしれない。


とは言うものの、ワクチンによる心筋炎のことを薬害とする向きはあまりないようである。そもそもワクチンは医薬品には属さないのだし、10万人中2人の発生を開発時に予測するのは困難であり、さらにはそれを未然に予測し回避するといったような0%にするのは不可能というものだ。あるいはかなり遠い未来にあっては、ゲノムの緻密な分析によりどういった遺伝子の人が心筋炎や発熱をするのか言い当てることが出来る日が来るかもしれないが、その日を待てるほど私たちは長生きできる生き物ではない。


薬害と薬害でないものの線引き

mRNAワクチンによる心筋炎が「薬害ではない」とするならば、では「薬害エイズ」と呼称されるところの事案との違いは果たして何だろうか。あるいは「薬害スモン」との違いは何だろうか。ここでふと、もしかしたら「薬害エイズ」あるいは「薬害スモン」について、若い人はあまり知識を持ち合わせていないかもしれないと思ったところである。こうした事件の紹介はまたの機会とさせて頂き、「線引き」の考察に向けては最近起きた事例を取り上げてみたい。


血管炎の治療薬「タブネオス」を服用後に患者が20人死亡したという記事がネットニュースや新聞記事に掲載されたのは2026年5月、つい最近のことである。「ブルーレター」と言っても通じる人はごくわずかかもしれないが、医薬品の注意喚起策として緊急事態だと認識された場合に発出される青色の紙のことを呼称する。血管炎の薬ではあるが、その服用後に重篤な肝機能障害を発症して死亡した人が20人集積されたという情報が“青い紙”によって医療機関に通達されたばかりである。



記事によれば、タブネオスは顕微鏡的多発血管炎や多発血管炎性肉芽腫症などの希少な病気の方が使用するもので、これによりステロイドの処方を無くす、もしくは減らすことが出来るという。ご存知の通りステロイドはステロイドで長期処方によるリスクは知られている。それ故にタブネオスという治療選択肢が無くなるとしたら医療現場では困ることだろう。そうはいっても死亡してしまえば元も子もないのであって、この一件、ひょっとしたら後の世~といっても今年かもしれない~は「薬害」と呼称しだすかもしれない。


また、タブネオスに関しては海の向こう、アメリカで起きているトピックの存在が、より「薬害らしさ」の演出に一役買っているようでもある。報道筋によれば米国FDAが今年の4月27日に同罪の承認取り下げを提案する旨を公表し、また欧州医薬品庁も国際共同フェーズ3試験においてデータ捏造が疑われたという。このような“うさん臭さ”が副作用死と相まって、合わせ一本となったときが「薬害」っぽいのである。


医薬品ではない“薬害”?!

字面(じづら)を見れば薬害は「薬」が原因物質であるということになる。ワクチンは一般的に薬のカテゴリには含めないし、サプリメントもまた然りである。しかしながら2024年に起きた“紅麹事件”は、その構造が過去の薬害事件とかなり類似していたことから、ときどき薬害類似事件とも呼称される。


具体的に“紅麹事件”とは一体、何が起きたのだろうか。これは紅麹サプリと呼称されるところの紅麹コレステヘルプ等に本来存在しないハズの青カビ由来の腎特性物質が混入し、これを接種した人に急性腎障害等が発症し5人が死亡したというものである。発覚したのが2024年3月22日、製品は発売元が自主回収を行っている。


特に「薬害もどき」と社会的に認知されたのは、厚労省の再調査によって死亡例は会社発表の5人だけでなく、疑いのある人が他に76人ほどありこれを発売元が厚労省に何ら報告していなかったことにもある。これで“合わせ一本”、薬害をそれらしくするのは副作用による死亡例に加え、こうした隠ぺい工作のような不適切な人の立ち振る舞いの方かもしれない。


他方、副作用監視業の長い私にとって、報道の仕方として眉をひそめてしまうのは「処方後に〇例が死亡」という表現である。抗がん剤など高齢者に処方されがちな薬は、仮にその処方にて数か月の延命が出来たとしてもやはり何年か後、あるいは何か月か後には「処方後に死亡」する。そもそも医薬品とは生きている人間に投与されるものであり、すなわち常に医薬品の処方は死亡に先んじるのが自明である。それ故に「処方後に死亡」なる表現を何とするのか。


また、例えば幼少期のステロイド投与がその人の寿命を縮めてしまっているかもしれないではないか。誰がそれをクリアに否定できるというのか。どんな研究をしたらその可能性が完全に否定できるのかと考えると、これはもう絶対に不可能である。然るに、報道の中に「直後」といったような時間的な表現が加わるならばいざ知らず、そうでもないのに「処方後に〇例が死亡」は常にナンセンスな表現である。


ではどうしてこうした表現が広く許容されているのかといえば、正直なところマスメディアというよりも国民が副作用の何たるかについてほぼ真剣に考えたこともなく、無理解が浸透しているせいだろう。広く日本中にあって、医師であれば処方後に起きたイベントが医薬品によるものかどうかの判断が出来るものだという勘違いも蔓延している。それ故に「ワクチン処方後の死亡例の全てが因果関係不明としているのは、情報の隠ぺいや捏造ではないか」といった誤解がしばしば生じるのも副作用の何たるかを全く知らないからに違いない。因果性を同定することがどれだけ難しいのか、国全体が想像力に乏しい。ショック症状のような処方直後のイベントならばいざ知らず、肝機能障害や心障害などのイベントと医薬品との因果の判断には医療の専門性ではなく疫学や生物統計といったデータ分析の専門性が必要不可欠なのである。


薬害根絶、はじめの一歩

さて、「薬害根絶」の旗印に日本が“根絶”しようとしているものは何なのだろう。定義が曖昧なものを曖昧なままで根絶することなど出来るのだろうか。問題を解決するうえでのはじめの一歩は、問題を適切にとらえることである。かのアインシュタインは「地球を救うために1時間与えられたら、59分を問題の定義に使う」と言ったとされる。問題解決とは要するに問題の本質を的確にとらえることに重きが置かれるべきで、それが出来れば適切な解決策はもうすぐそこにある、というわけだ。すなわち、問題の定義をすっ飛ばして定義曖昧なままでの「薬害根絶」という目標はあまりに筋が悪いと思うのである。


因みに上述した言葉をアインシュタインが言ったかどうかは怪しいらしい。「問題を正しく定義できれば、その問題は半分解けたも同然だ。(A problem well stated is a problem half-solved.)」というチャールズ・ケタリング(アメリカ自動車産業を根本から変えた発明家として知られる)の言葉を引いた方が良かったかもしれない。


さて、前回のコラムで紹介した「薬害は今も起きている」という私の考えをここで紹介しよう。薬害とは捏造や隠ぺいといった人為的な”スパイス“が加わることが常であり、つまりは仮に命をも奪うような副作用、副反応であっても「人為的にはどうすることも出来ない」類は薬害とはされないように私には感じられる。すなわち、人為的に出来ることはちゃんとする、それが薬害根絶策の本質ではないだろうか。


より具体的には、自社の医薬品と他社の医薬品とを例えばRWD、医療データを用いて解析することでひょっとしたら副作用リスクが大きく見劣る、極端にいえば「市場から撤退すべき医薬品」は恐らく今も存在している。バイオックスは世界80か国以上で数千万人に処方されていた消炎鎮痛剤であるが(日本では未発売)、COX-2阻害薬の中でも著しく心毒性があることが後に判明し市場から撤退している。「医師は副作用かどうかわかる」というのが幻想でしかないのは前述の通りであるが、処方されて数か月後に亡くなったとしても一例単位ではそれが医薬品によるものであると判断するのは極めて難しいのであり、一方で医療データ等を使って他のCOX-2阻害薬と比べてみればその毒性の突出は一目瞭然ということはあり得る。レセプト(保険請求)データや電子カルテデータをみればその医薬品処方例だけ、およそ突出して心臓病の薬が処方されていたり、死亡までの日数が極端に短かったりするからである。


さて。果たしてこのような研究を自主的、積極的に行っている製薬企業はあるのだろうか。少なくとも私は1社も知らない。つまりは「本来、発売中止すべき医薬品が、他剤との比較研究といったような人為的努力を怠り今も市場に出回っている」。やるべきことをやらない、これすなわち薬害なのではないだろうかというのが私の考えである。


不適切なアプローチ?!

私が製薬企業の副作用監視部門にてデータ分析をしていたのは、かれこれ30年にもなる。これほどまでの長きにわたって副作用や薬害に携わっていた人は多くはないだろうし、であるならば副作用監視の何たるかを後世に伝える責務が私にもある。その意味で極端にいえば「薬害根絶」という“リップサービス”、“パフォーマンス”で、世間を欺いているかのようにみえる現状に対しては不愉快であり大いに反省して頂きたいと切望するものである。



行政当局にあっても薬害教育と銘打った対策は「悲劇の伝承」一辺倒であり、どのようにしたら医薬品によるものか、そうではないのかを判断できるのかについては全く触れられていない。厚生労働省の正面玄関前には「薬害根絶の誓いの碑」が設置されているのであるが、私にはこれこそが達成すべき目標と方法論との不一致、「悲劇を伝承し続ければ悲劇はきっと起きなくなる」という幻想の象徴に映るのである。他剤との比較を要請するでもなく、可哀そうな人たちがいたことを伝承するとか、医師に誓いを刻むという方法論は、およそ薬害の根絶には貢献しない。


前述の通り「薬害」という言葉は定義されていない。つまり、いかなることがこれから発生したとしても、「その後、薬害は起きていない」と言い張ることまで出来てしまうだろう。因果性の判定には薬剤疫学のスキルが不可欠であるが、正直にいえば日本の製薬企業において副作用監視部門で薬剤疫学のスキルは必要であるとすら思われていないように思われる。当該部門の責任者の多くは薬学あるいは医学には明るくても、疫学のスキル獲得は軽視され、研究デザインの何たるかを理解できず、薬剤疫学論文の正しい読了が出来る人はごく一部である。これこそ、“大ピンチ”である。



「続・疫学と算盤(ソロバン)」第29回おわり。第30回につづく




 
 
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