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第28回:言語学的な疫学論考(1)

  • 4月28日
  • 読了時間: 13分

2026年4月28日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                 (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第28回:言語学的な疫学論考(1)


進化系

チョコミント好きの人のことを「チョコミン党」などと言うらしい。私はそんな党に入党した覚えはないのだが、チョコミントの“映え”とでもいうのか見た目の美しさにつられてついつい買ってしまう。最近はより“映え”るように青色を強めたり、あるいはミントの分量を増やしたりという商品も出てきており、こうした商品のことを「進化系」などというらしい。


それにしても「進化」がこれほどまでにカジュアルというか低俗化したのはいつの頃だったろうか。スポーツ中継などをみても、選手の技術が少し向上したりするだけで解説者は「この選手は進化しましたね」などと軽々しく口にする。もともとは生物学分野の言葉であって、集団の遺伝的頻度が世代を超えて変化することであった「進化」は、今では何やら進歩の最上級、大げさ表現として多用されている。


時代に取り残された人の代表のような立ち位置で、こうした言葉の誤用・乱用をたしなめたいわけではないのだが、こと「進化」の使い方についてだけはどうしても慎重になってしまう。それは本コラムでも以前とりあげた優生学という人類の“黒歴史”との関係である。


どういうことか。仮に足の速い人が優越であり、足が遅い、あるいは車椅子の人が劣等であると仮定しよう。確かに狩猟時代にあって逃げ足の速い人は、天敵に対して逃げ切れる可能性が高いという意味で適応力は高いといえるだろう。しかしながら、狩猟時代でない現代では足が速いことで命が長らえる可能性が高まるということは特にない。他方、頭脳明晰という能力はどうだろうか。例えば戦国時代にあって軍師のポジションならばともかく、ほとんどの一兵士にとっては体力や腕力と比べてあまり意味をもたなかったものである。要するに私たちが優劣などとしている評価基軸というのは、都度その時代に合わせて変化するものであって、決して普遍的に優越だとか劣等だとかというものではないのである。


かのダーウィンもまた進化論において「進化」のことを環境適応力に過ぎない、としている。優生学とは国家権力などが人間の出生について口を出す、「優秀な人間だけが子供を産んでよい」などというトンデモナイ論を後押しするものである。こうした事情がどうにも頭を駆け巡り、今どきの「進化」の使い方に私はどうしても躊躇してしまうのである。


さて。今回はコラムのタイトル「疫学と算盤」とは少し離れたところの「言語学」についてとりあげてみたい。別の学問領域ではあるのだが、実は疫学とは無関係でないというのが私の持論である。その真意としては「言葉の定義一つで救える命がある」というお話を次回に展開したい。まずは、そんなことは気にせず今回は言語学に関する話題にお付き合い頂けたらと思う。


ソシュールの登場

言語学をキチンと学んだ人からしたら「いきなりソシュールかよ」とお叱りを受けるかもしれない。彼が生誕したのが1857年ということなので、それまでの言語学の歴史を省略するのは乱暴なことだとは思う。そうではあるが、言語学を科学の領域に引き込んでくれた功労者はソシュールである、ということについて言語学者もきっと賛同してくれるだろう。


彼は「言葉って何だろう」という哲学的な問いに対して、まずは音声と文字とを分けてはどうかといった提案をしている。また、社会全体として利用されている言葉と普段使いしている具体的な言葉とは分けてとらえたうえで学術研究するなら前者に限定してはどうか、といったような整理もしている。さらには学術研究のカテゴリとして、その時代に利用されている言語そのものの研究と、過去からの言葉の流れを研究する歴史学的な研究とに分けることを勧めたりしている。玉石混合であったろう当時の言語学を上手に“交通整理”してくれた、というわけである。


その意味では「進化」という言葉の使い方は現代的な考察として、例えば「神っている(かみっている)」とか「超」といった使い方との類似性で整理する研究もあるだろう。一方で、歴史的にマスメディアの登場以降、彼らが仕掛けてきたところの販売促進のための大げさ表現の潮流としてとらえる、といった研究もありそうだ。大げさ表現は新聞や書籍を人々の目に止めることに貢献するので、エスカレートしてしまうのがマスコミの力学だ、と言ったらマスメディアの人に叱られるだろうか。


因みに言語学者は、殊更に「最近は言葉が乱れている」「間違った使い方をされていて残念である」といったような頑固おやじ(?)の立場を基本的にはとらない。言葉の意味するところは社会の歴史からしても変化することが当たり前と考えるからである。


例えば「申し訳ありません」や「とんでもございません」という表現は実は古くからではない。元来、「申し訳ない」「とんでもない」という形容詞なので、丁寧な言い方をするのであれば「申し訳ないことです」「とんでもないことです」とするのが正しい。しかしながらもはや「申し訳ありません」という言葉は社会的に受け入れられているといえるだろう。一方、「とんでもございません」という表現について気にせずに使う人もいるが違和感のある人もまだ一定数いるに違いない(私もそうだ)。言語学的にこれを概観するならば「とんでもございません」という表現もまた誤用ではなく正しい表現にそろそろ昇格することになりそうである。それが言語学者のとらえるところの「言語」の正体、ということでもある。


オントロジー、ターミノロジー

「オントロジー」という言葉もまた、元来の哲学的用語としての存在論的なニュアンスではなく、現代では概念化や構造化といった文脈で使われるようになった。そもそもソシュールは現代的解釈としては言語学者の祖のような受け止められ方であるが、実際のところは哲学者的であって彼の最大の功績は言語学よりもむしろ、その後にフランスで勃興したところの構造主義への貢献が大きいと考えた方がいいだろう。


医療分野でいえば、主には精神疾患分野における病気や症状の定義にも関係がある。例えば出社拒否症という症状にはどのような疾患定義が含まれるのかといった、「病気を構成する概念の整理」にはスケール(尺度)開発研究という分野があるが、これはいかにも構造主義的である。他にも「美しい景色」や「高貴なふるまい」など、文化・芸術的なものをもってして分析的に構成要素を考察するという思考は分析好きの人間にとって楽しかったりもする。フランスでうまれた構造主義は現代でも息づいているのである。


他方、疫学や医学研究的な視点でのオントロジーについても補足しておこう。例えば病気を分類するうえでの、特に作用機序的な分類と発症部位的な分類がぶつかり合って不便を生じることがあるが、こうした課題はオントロジー的課題といえる。肺がんを研究する人にとって「悪性腫瘍」の概念を上位にもってきたい場合と、部位としての「呼吸器」の概念を上位としたい場合があり、日本でよく利用されている病名コードではむしろ不便ということも生じる。その意味で構造主義的な視点でいえば例えばICH分類は、ある程度妥協の産物であり悪く言えば“ご都合主義的”である。一方、欧米で利用されるSNOMED(Systematized Nomenclature of Medicine)はオントロジー的な配慮がなされており、どちらの要求にも応えることが可能である。なお、こうした用語に限定した概念整理はオントロジーというよりもむしろターミノロジーと表現されることの方が多い。


言葉あそび、という“病気”

本コラムの読者層にあって、言語学者や哲学者が身近にいる人はそうは多くないだろう。哲学者に対する偏向した思い込みでの人物像を思うにそれはロダンの彫刻「考える人」のようであり、正直なところ「何をそんなに難しい顔して悩んでいるの??」と周囲は思ってしまう。私の想像する哲学者とはそんなイメージである。


罪のない者の命を奪うのは悪いことだ、としながらも平気で「和牛はうまい!」などと言える人はおよそ哲学者ではない(私もその一人である)。哲学者はいつも何かにつまずき悩んでしまう病気に掛かっているともされる。その悩みの本質的なところに対して勝手に自分で墓穴を掘ってそこに落ちているだけ、と批判したのがルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインである。


彼は哲学者に対して「ほとんどビョーキ」、、、とまでは言わなかったものの「言葉の迷路に勝手に入り込んでいるだけ」とした。要するに「生きるとは何か」「真理とはどういうことか」といったテーマにはゴールや正解も無いのに、何を悩んじゃっているの、ということである。もしかしたら私たちの悩みの中にも、悩むだけ無駄な、そんな悩みがあるかもしれない。それは問いの設定自体が変だという、言葉遊びでしかないのかもしれないのである。


言葉がもたらす恩恵

言葉遊びが過ぎるのは問題であるが、新しく作られた言葉がもたらす恩恵も当然ある。言葉が登場するまではボンヤリとしていたものが、ハッキリとした輪郭をもってして私たちの理解を助けてくれるのである。ビジネスの中でも例えば「マーケティング」、例えば「マネージメント」。どちらも目には見えないものである。こうした概念整理は、確かに言葉遊び的ではあるものの合理的な意思決定をするうえで極めて有益なものだといえよう。


また、「ストーカー」という概念はその昔には無かったものの、今ではそれがどういった“悪行”であるのか社会が認識できるようになった。「ハラスメント」もまた然り。パワハラ、セクハラといった“初期”のものから、最近ではアカハラ、カスハラ、そして上司がむしろ叱らないということをハラスメントとしてとらえた「ホワイトハラスメント」といったものが登場している。「ハラスメント」という言葉と概念整理がその社会課題について私たちの理解浸透を時短化してくれるのである。


一方で作為的な定義化を批判的にとらえるという側面もある。本コラムでも以前、取り上げたことがあるのが社会学分野において医学分野に対して切り込んだ「病気化」という概念がその一つである。その昔には存在すらしなかったところの高血圧症であるとか、糖尿病であるといったものは人間が意図的に「病気作り」をした、というのである。


確かに私も長いこと製薬企業に務めていたので、社会的に「製薬企業は勝手に病気を新たに定義して勝手に市場を作って儲けている」という指摘は、当たらずとも遠からずであることは認めざるを得ない。実際のところ高血圧の定義としてその数字を下げることで高血圧治療薬の市場は大きく拡大している。今でも適応障害であるとかギャンブル依存症であるといった病名が新たに開発されており、医薬品の適応症として「〇系薬剤を処方しても効かなかった〇病」のような、暫定的な病名定義なども医薬品の「使用上の注意」の記載ぶりとして乱立している。


もちろん、これはすなわち製薬企業と行政とによる悪だくみだということではない。むしろ早期発見、早期治療は私たちの命を救うことであり批判されるようなものではないというのがほとんどであることは強調しておきたい。


プロトタイプ理論

思えば私にとって至極、当たり前の言葉であるところのリアルワールドデータ(RWD)であるとか、リアルワールドエビデンス(RWE)といった言葉もまた歴史の浅い、“新語”である。務めていた製薬会社が業界に先んじて作った「安全性リアルワールドデータサイエンス部」なる部署は、当時社内で一番長い部署名であったと聞いている。この部署は発展的解消をして今では存在しないのであるが、その部長職を担ったのは後にも先にも私だけである。これは誇らしいことなのかそれとも笑いのネタなのかは自分でもよくわからない。


何れにせよそのRWDなる言葉の定義は未だハッキリとした定義がなされていない。広い意味では研究所や臨床試験といった実験・試験から得られたデータ以外の全て、つまり経済活動から位置情報に至るまでを網羅する概念のようであり、狭い意味では電子カルテデータとレセプト(保険請求)データのみしか指さない。こうした概念が曖昧だとコミュニケーションに困る、ということで学会のプレゼンターはしばしば講演の冒頭に「今回の講演ではRWDの定義を以下とします」と述べた後でプレゼンをスタートしたりもする。


概念の線引きが明確でないことは一概に「けしからん」というものではないだろう。小さな子供が犬を指さして初めて「ワンワン」と発話したなら、親としては犬を認識した我が子に対して嬉しく思うことだろう。一方でテレビ番組の中に何やら犬らしい動物が映っていたとしても、実はそれがオオカミであって犬ではないことは、大人でも正確には判断できないこともあろう。そうだとしても日常生活としては特段、困ることはあまりない。このようにして人は概念の中心部分だけをクリアに理解し、線引きのところにはあまり意識を向けていないとするのがプロトタイプ理論である。プロトタイプ、つまり典型的なものだけに概念はスポットを当てていて、微妙なところまで細かく定義化するのはいつも後回しになる。


薬害

長々と言語学周辺の話題をいくつか紹介したところであるが、冒頭の「言葉の定義一つで救える命がある」に向けて核心部分に近づけていきたい。それは「薬害」である。


2011年のことであるが、日本が今後、薬害が再び起きないための「薬害再発防止のための医薬品行政等の見直しについて(最終提言)」がまとめられ発出されており、厚生労働省のサイトで閲覧可能である。ところで、「薬害」とは具体的にどういったものか、果たして社会は共通認識であるといえるだろうか。


恐らくであるが前述したような「プロトタイプ理論」のようにして重要な中核部分のニュアンスは社会的にも共通認識されているといえるのかもしれない。しかしながらその一方で「薬害の再発防止策」を具体的に講じようとするならばそれは少し困ることになるのである。私自身、これまで製薬企業の副作用監視部門に身を置いていたということもあって、この課題についてどう考えているのか、講演や執筆の機会を幾度となく頂いてきた。その都度、薬害なる定義を曖昧にしたのでは全くお話が進まなかったのである。


私がとらえているところの「薬害」について、歯に衣を着せない物言いで率直にいうならば「二度と起こさないために」などとするのはそもそも論外である。批判を恐れずに言うなれば「薬害は今も起きている」。それが私の考えるところの現実であり、これを理解して頂くために、今回は言語学のお話を取り上げたのであるが、その詳細については次回としたい。


進化の途上

チョコミント系の商品をついつい買ってしまう一方で、それを飲んだり食べたりした後の感想は大抵、「めちゃうま」というよりは「想像した通りの味だな」である。今回購入した和菓子屋さんのお菓子は、レギュラー商品のクリーム部分がチョコミントになっていて、チョコレート部分がパリパリとして美味しい。美味しいのだが、やはり「想像していたよりうまい」とはならないのである。味だけならレギュラーの方がずっと良い。



ひょっとしたら私が変化に対する適応力が弱く「この和菓子は本来、こういう味であって欲しい」という、思い込みにとらわれているからだろうか。単に「進化」に乗り遅れているだけ、という気がしないでもない。


「続・疫学と算盤(ソロバン)」第28回おわり。第29回につづく




 
 
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