第32回:患者セカンド
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2026年9月7日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。
(21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)
“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の
「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第32回:患者セカンド
子供ファースト
先日、家族3人でカジュアルなイタリアンレストランで食事をしていたときの話である。私の席から左斜め前に見えるボックス席のお客さんはご家族のようで、大人の女性1人とその他の3人は小学生にあがる前後の女の子である。今どき3人娘というのは珍しくアニメのキャッツアイみたいだなと思ったら、そのお母さんらしい人はもう1人、小さな女の子を抱えている。どうやら4人娘、激レアといったところだろうか。
我が家は男の子の一人っ子で、息子が小さかった頃は両親2人で1人を連れて外食することでも大変だったと記憶しているのに、母親1人で子供4人というのはその大変さが想像すら出来ない。このご家族の父親は今頃どうしているのだろう。他人の家のことなのでそんな心配は無用なのだが、ひょっとして他にも4人の男の子がいる8人兄弟で、父親の方は男の子4人を連れて別のレストランで食事、、、まさかそんなことは無いか。
お子さんのいる家庭ではどうしても子供優先、子供ファーストの生活となる。小さい頃は手がかかるし、大きくなってくると今度は受験のサポートが大変である。大学までとなれば高校受験、大学受験に加え、中学受験、ひょっとしたら小学校受験や幼稚園受験まであり、受験シーズンは家族全員の活動も制限される。子供が4人ともなれば、恐らくこの先の約20年、子供の受験を最優先する年がたくさん発生することだろう。
幸いにして我が家ではその“受験を最優先する年”が高校受験のわずか1年で済んだ。追加の学費といっても、たまたま近所に出来たばかりの学習塾に通わせた程度で、さらには大学付属の高校に合格してくれたのでタイパとでもいうのか、「受験(による行動制限タイムの)パフォーマンス」がよい。その点は子供にも学習塾にも感謝したい。
ところで、その学習塾は「合格力No.1」という謳(うた)い文句であったのだが、この「合格力」という指標が何なのか未だ謎である。大手学習塾でもないし、有名高校にたくさん合格者を出しているという風でもないローカルな学習塾である。塾側には何らかの理屈はあったのかもしれないが、こうした表現には厳しい広告規制が無いということのようだ。

さて、今回は巷でよく聞くところの「患者ファースト」の虚と実についてとりあげようと思う。この「患者ファースト」もまた「合格力」のようでもあり、ちょっと怪しい臭いがしてくるのである。
シェアード・ディシジョン・メイキング
国内において患者ファーストの機運が高まってきたのは、私の肌感覚からすれば、ここ10年ほどのことであり、それは欧米と比してかなりの“後進国”である。またそれを具現化する初めの一歩は、「患者の声に耳を傾ける」という行動になるように思うのではあるが、患者の声に耳を傾けない医者も未だに多い印象である。
何年か前に救急車で運ばれたときのことである。医師にお腹を押され痛みが強まった際、「ひどく痛い」と訴えたのだが、そこにいた医療者の一人に「そんなに痛いハズが無い」と言い返されたことを覚えている。どうして私の痛みがこの医者にわかるというのか。恐らくその医師にとってこうした言動はいつものことで、自らの判断こそ正しいのであり患者の声は聞こえていても馬耳東風でしかないのだろう。
日本の医師の多くはパターナリズム(paternalism)であるといわれる。家父長主義とか父権(ふけん)主義とも翻訳され、昭和のガンコおやじ像がパターナリズムの象徴であり、それ故に「父権」という訳語がついたのだろう。パターナリズムとは強い立場にある者が弱い立場の者の意思に反して、弱い立場の者の利益になるという理由から介入したり干渉したりすることである。
医療現場において「患者の声を聞く」ことの象徴として、シェアード・ディシジョン・メイキング(Shared Decision Making, SDM)という言葉はよく知られている。治療選択の意思決定を、医療者と患者とが一緒に“シェア”して決めるという考え方である。この言葉が海外から“輸入”されて以降、多くの医療者が「患者の声も聞かないといけない」という意識をもったことであろうと信じたいところではある。
臨床医である尾藤誠司氏は、書籍「患者の意思決定にどう関わるか?」の中でSDMのことを「意思決定支援」とはせずに「意思決定関与」と捉えるべきとしている。恐らく「支援」としたのでは患者の声を聞いている「フリ」をしているだけで済ませてしまう恐れがあるからなのだろう。「私はSDMを実践している」とする医師の中には、実は既に自分の頭の中には治療方針が決定しており、それを変更する気がさらさらなく単に患者を説き伏せているだけでしかない、という人もいるらしい。
医療の専門知識を有する医師のパターナリズムは、患者がそれを求めるということもあり必ずしも悪いことでは無いのだが、 “先進国”で言われるところのそれは、リバタリアン・パターナリズム、つまり個人の自由な選択肢(リバタリアン)を損なわないうえで、そっと誘導するというものである。言うは易し、医師と患者の双方の考えを出し合って治療方針が決まるという世界が当たり前になるには、まだまだ時間が掛かりそうである。
PPI
製薬産業における患者ファーストを具現化する取り組みとしては、PPIはその代表選手の一つだろう。PPIとはPatient and Public Involvementの略であり、治験、つまり医薬品として発売してよいかどうかを決める試験について、そのデザイン段階からの患者の声を聞くというのがPPIとされる。そもそも欧米にあって「患者」というのは当該の病気について少なくとも“経験”している点において、「医療者にはない専門力がある」という考え方が根底にある。治験計画に患者が関与するというのは、その意味において至極当たり前であるとも言えるのだが、実際のところ国内にあってはSDMと同様、まだまだ緒に就いたばかりである。
PPIの実装によって例えば以下のようなことが期待される。
(1)適切な指標
医療者・研究者にとって指標は客観的であって欲しいという願望が強いため、どうしても測定可能な検査値だけで当該の治療判断をしたくなる誘惑にかられる。たとえば血圧、HbA1c、バイオマーカーなどがそうだが、これらは本来、真なる治療目的ではなく、代替指標でしかない。治療の成功とは、「患者が満足する」ことが何より必要であり、それが達成していなければ代替指標が改善したとしても、それは「治療者が満足した」だけでしかない。
一世代前の抗ガン剤などは、効き目が今よりもはるかに低かったということもあってか、単に癌細胞の縮小さえ確認できれば新薬として承認されていたのだが、一方で強烈な副作用により、かえって命を縮めてはいないのだろうかという声もあった。今では当たり前になったQOL指標をはじめ、患者が副作用で苦しんではいないか、それが耐えられるものかどうかといった観点がその当時は欠落していたともいえよう。癌が縮小しても髪が抜け吐き気がしてうつ病になり、しかも生存期間をほとんど長じないような医薬品をヨシとする患者がいるハズもない。「患者の声を聞かない」というのはこういったことである。
なお、患者の「満足度」は、疾患の分野によってその構成要素は異なってくる。例えば前述した疼痛の治療に関しては、患者(被験者)に痛みの度合いを聞けば済みそうだが、癌や精神疾患に関していえばもう少し複雑であり、例えば職場復帰が出来るかどうかも満足度の構成要素になり得る。また、日常生活への支障やケア・介護の負担など一緒に暮らす家族の声も聞く必要がありそうだ。「治るか治らないか」にばかり考えが行きがちな医療者の視点を、PPIは治療の真なる目的、ゴール設定に正しく補正することを可能とする。
(2)治験の実施可能性向上
被験者(患者)側が感じる負担について、例えば検査の回数や検査そのものの「しんどさ」などは医療者が軽視してしまう場合もあるだろう。そもそも今回の治験がどういった研究なのか、そこで行われる投薬や検査頻度、検査そのものの「しんどさ」などを被験者に正しく理解してもらうのは容易ではない。研究参加に関する同意説明書について患者が読んでみてよくわからないというのであれば、説明書を修正すべきである。
また、患者目線での是正がされれば、治験への参加同意がされやすくもなるだろう。説明がよくわからない、ということが理由で治験参加をしない人もいるに違いないが、これを正直に答えてくれる可能性は低い。患者が医療者にどれだけ気を使っているのかは医療者、治験実施者の想像を超えていて「ちょっと気が乗らない」などと“ウソ”をつくのは、むしろ医療者や治験実施者に対する思いやりである。PPIによって治験がいち早く開始され、いち早く研究結果がわかるようになるというのは、医薬品を一日でも早く発売開始したい企業側の経済合理性にも合致することでもある。
PPIもSDM同様、言うは易しである。只今、製薬産業において治験なるものはグローバル全体で実施されるところの、国際共同治験という枠組みで実施される場合も多い。このような場合は研究デザイン、研究実施の意思決定が日本ではなく海外で行われるという場合がほとんどで、そうであるならば仮に日本の患者が「こうしてはどうですか?」と意見を言った際に、「そうですね、変更しましょう」と即答できる可能性はまず無い。せいぜいが「本国に確認してみます」とお茶を濁す程度である。PPIもまたSDMと同じように名ばかりの単なるポーズでしかない、ということに陥る恐れがあるというわけである。

加えて、「患者とは誰か」という悩みも生じる。患者団体が組織されるようなポピュラーな病気ならば、その団体に相談するという選択肢もあるが、そのような団体があるとは限らない。また、患者団体があるからといってそこに問い合わせれば済むとも限らない。組織されてから時間が経てば医療者レベル、あるいはそれ以上に当該疾患の専門家ともなり得る。医療者同様にして「知識の呪い」にかかり、一般の患者さんにとって理解が難しいところを直観的に察知するセンスが衰えるという懸念もある。かくしてPPIを真なる意味で実現するのは難しいのである。
患者と製薬企業の距離感
製薬企業では随分と長い間、患者さんとの直接的な対話機会は避けられてきたという事情があったことをご存知だろうか。医薬品がテレビコマーシャルどころか、ネット上の広告欄にも一切登場しないのは規制によるものである。そうでもしないと営利企業のロジックとして行き過ぎた表現、例えば「一瞬で癌が消えました!」などと大げさ表現してしまう心配がある、というのがこうした厳しい規制の背景にある。
同様の理由にて製薬企業が直接の顧客、つまり患者さんに接近してはならないという慣習もまた長い間、続いてきたというわけである。確かに営利企業の力学は詐欺まがいの行き過ぎたアプローチをする恐れがあるのだが、例えばアメリカでは、医薬品のコマーシャル規制はないし、治験の参加もテレビコマーシャルで呼びかけても構わない。日本も時代に合わせて規制を緩和してもよいのではという機運が高まりつつある。
製薬企業が直接、患者さんとの対話機会を設けることが出来るようになった背景には、このような事情もあったのだろう。私も数年前に一度だけ、所属していた製薬企業の主催にて癌患者の皆さんと一緒に対話するという機会を得たのだが、それは入社してから数十年経って初めてのことであった。端的に言えば患者さんと製薬企業との対話がここにきて「解禁」されたというわけである。そこで語られた製薬企業にとってのエンドユーザー(=患者さん)たちの話は、医療者が語る話とは全く別の視点と説得力があり、「この人を救いたい」という製薬企業社員のモチベーションを高める、という経済合理性にもつながるのである。
営利ファースト
患者の声を聞くという機運が高まっていることは喜ばしいことである一方で、それがあまりに耳障り(みみざわり)のよいことが私には気になっている。「患者ファースト」なる表現は営利度外視の自己犠牲に満ちた救済者というキャラクターをイメージさせるのだが、要するにその多くは「顧客ファースト」でしかないというのが実態である。顧客を優先することは産業としては空気を吸うように当たり前のことでしかなく、それは車のディーラーもラーメン屋の店主も一緒である。他方、医療者にとってみても「顧客ファースト」は至極当たり前のことであり、わざわざ言及するようなものではないだろう。
このように思いを巡らせてみると、「患者ファースト」という言葉は口にする必然性に乏しく、私はこれを禁句にした方がよいとさえ考えている。本来的な患者ファーストを製薬企業として標榜するのであれば、ときに自社品ではなく競合他社の医薬品処方の方がよいかもしれないという話をアタリマエにしていること、そしてまたそのような言動を会社が推奨し賞賛し、当該社員の評価を高くするといったことが実践されていなければならない。そうでなければ所詮は「自社の医薬品処方者ファースト」なのであり、これは産業界一般の顧客ファーストという概念と何ら変わらない。
製薬企業は営利企業なのであり、その存在意義、パーパスは「営利」であり、仮に赤字経営が続くのであればそれは営利企業としての存在意義が失われ、市場撤退を意味するものである。それ故にその本質は「営利ファースト」で仕方なく、またこれは決して悪いことでは無い。むしろ資本主義なる社会システムがそのようにして「より優れた医薬品が次々に作られる」ことを進歩させ続けてきた、重要な仕掛けであるといえよう。然るに、製薬企業にあっても患者ファーストの何たるか、その難しさ、言葉の重さを痛感している人は「患者ファースト」などとは決して口にしない。企業の評判を高めようという魂胆のある人だけが「患者ファースト」と気軽に口にするのである。
そうはいっても「うちは営利ファーストで、患者さんは二の次(セカンド)です」と言ったら会社の評判は地に落ちそうである。うまく表現するのはなかなか難しい。「合格力No.1」というのも、未だわからない表現ではあるのだが、結果として子供を高校に入学させることに尽力してくれた、我が家にとっては「合格力No.1」の学習塾ではあった。もちろん、他の学習塾には行かせてないため比較対照群となる学習塾もないので、「暫定的に同点1位の合格力No.1」とするのが正しいのかもしれない。

振り返ってみると子供の受験に付き合ったあの1年は確かにハードであった。ハードではあったのであるが自分のことは二の次(セカンド)という日々はそんなに嫌ではなかった、というよりもむしろ幸せなことだったようにも思い出される。冒頭のような4人の子供を抱える家族のこれからの大変さを想像しつつ、その子育ての大変さが今となってはどこか懐かしく、少しばかり羨ましくも思うのである。
「続・疫学と算盤(ソロバン)」第32回おわり。第33回につづく





