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第30回:疫学と規制

  • 3 日前
  • 読了時間: 13分

2026年6月29日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                 (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第30回:疫学と規制


田沼政治の見直し


白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき (詠み人知らず)


江戸幕府の老中、田沼意次(たぬま おきつぐ)という人は私利私欲にまみれ“わいろ政治”を行った悪人であって、であるが故にそれを正すための「寛政の改革」は必然であったと教わったような記憶がある。この改革を行った松平定信は白河藩の出身ということで、冒頭の狂歌が庶民の間で広がったというのは有名な話である。



ところがその後に研究が進み、田沼意次という人が悪人というイメージとはかなり違うのではないかと再評価されたようである。NHKの大河ドラマ「べらぼう」では名優、渡辺謙が田沼を演じ、それは正義感にあふれた政治家であった。歴史の解釈というのは史実がハッキリしないということもあり時代の流れや新たな物的証拠の登場で変化することはよくあるのだが、田沼意次ほどその評価が豹変した人も珍しいだろう。


昔の権力者や政治家の行ったことが悪手であったのか、それともファインプレーであったのかというのは、後の世が無責任に評価するのが常である。しかしながらリアルタイムで政治の意思決定をするというのはおよそ大仕事であって、その苦労はいかんばかりかと思う。結果がどうであれ田沼意次も、松平定信も、より良い世の中にするためにどうしたらいいのかを必死に考え抜いたうえで政治を行ったのであろう。であるが故に、田沼政治が緩すぎるとか、白河政治が厳しすぎるだとか、後の世に生きる私たちが評論家のように批判するというのは所詮、戯言(たわごと)である。


さて今回は規制について取り上げてみたい。もっとも、田沼政治や憲法改正などといった大風呂敷を広げるつもりはない。あくまで、「疫学と算盤」的に医療データの活用や先回とりあげた医薬品の安全性監視業において、規制に対してどのようにして折り合うのか、あるいはこうしたビジネスの適正化に向けてはどういった規制が望ましいのか、民間企業の実務者の視点から考えてみようというのが今回の趣旨である。


医療データ利活用分野での“二大規制”

自分の医療データをフルネーム付きで他人に見せるということを想像してみよう。それを許せるのは自分の治療を担当してくれる医療者か、もっと広げるとしてもせいぜい家族や親族くらいまでであろう。その一方で、私たちの診断や治療といった医療データを分析・活用しなければ医療の進歩は遅滞し、特に医療データ“先進国”と比して医薬品の開発などの分野で大きく遅れをとってしまうことも想像に難くない。果たしてどうやって個人情報を保護しつつ、この相反する課題をクリアにしたらよいのかという視点で法整備が進んでいる。


先行したのは、まず個人情報の保護を司る「個人情報保護法」である。自分のプライバシーが安易に赤の他人に知られるのは許しがたいものであり、それ故の法制度の設定は必然であったといえるだろう。2003年に制定されたこの法は当初より3年ごとに必ず見直すことが決定され、それがいまも続いている。もちろん、当初ほどドラスティックに改正する部分は3年ごとに徐々に減っており、今ではかなり落ち着いてきたといえる。


個人情報保護法の中身についてごく簡単にいえば自分の医療データを使ってよいかどうかの判断は当人にその権利があり、故に当人の了解がなければ使ってはいけないというものである。これを具現化するうえで、当人への同意のあり方であるとか、ルール違反かどうかを“取り締まる”個人情報保護委員会の設定などが整理・整備されている。また、先般のパンデミックのように、誰がコロナに罹患しているとか、誰がワクチンを接種していないだとか、こうした情報は「個人情報を守るよりも周囲の人たちの人命を守る方が大事」ということで、仮に当人が他人に教えたくないと言っても同意なく使ってよいという例外規定も設けられている。


一方で、あまりにブレーキが利き過ぎては「寛政の改革」ごとくに困った副作用、つまり医療の進歩や国際競争の視点で他国の後塵を拝するのであって、医療データ利活用のアクセルとして次世代医療基盤法が制定されたのが2018年である。当時の私は製薬企業における医療データ活用促進の旗振り役のような立ち位置にあり、特に2023年の改正の際には民間企業の意向を行政サイドに伝えるという仕事に奔走していたという記憶がある。


当時の改正について詳細な説明をここでは省略するが、簡単にいえば「製薬企業も使えるようにした」。具体的には、初期の次世代医療基盤法で「匿名」と呼称された方法論では、データに疑わしさがあったりしても誰のデータであるのかわからないし、確認できないのであるから行政も薬事としてこれをもとにした解析結果などは受け取ってくれなかったのである。また、例えば罹患者の少ない病名は一律に「その他の病名」とされる等、“個人情報優先主義”の色彩が濃かったといえる。当然のことながらこれでは希少疾病分野での利用が全く出来ないというので、製薬産業ら民間の声も聞いてもらったうえで新たに「仮名」という呼称が加わったのが先の2023年の改正である。


「仮名」というのは「匿名」とは違い、誰の医療データなのかその照合票が存在しているのである。もちろんのことであるが、では誰でも当該のデータがどこの誰のものかわかるようではマズいのであって、その照合が許されるのはあくまで国が認定した者に限定される。また、不適切な利用などルールに違反した人に罰則が設けられたりもしたのである。これによって製薬企業に務める人であっても、目的が適切であれば、当人の同意がなくても医療データの利用に道が開けたのである。


規制のヒエラルキー

医療データを利活用しようという人が守るべきルールは個人情報保護法と次世代医療基盤法の2つだけかといえばそうでもない。昨今では薬機法や医療法にも「医療データを使う方向性」で記載の更新がみられ、また、利用に際しては法規の下にこまごまとした“ルールブック”のようなものが色々とある。法規制、とひとことで言ってもそこにはヒエラルキーがある。ざっくりとした日本での法規制のヒエラルキーは以下の通りである。


(1)憲法(最上位)

(2)法律(国会が制定する)

(3)政令(内閣が制定する)

(4)省令(各省庁の大臣がそれぞれ制定する)

(5)告知(大臣・庁長官が制定)

(6)通達(行政内部からの指示、法的拘束力は無い)



また、ご存知の通り従うべきは法規制だけではない。医療の研究分野でよく知られている「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」は法規制とは別物であるが、倫理の視点で研究者はこれを遵守すべきと認識されている。私のようなデータ分析を担当する人は、概してこうした法規制の文章を正しく読了するということを面倒がったりして決して得意でない場合が多い。かといって違反は許されないので規制に明るい人に相談したり、規制の更新の際には説明会に参加したりすることで法解釈の理解を頑張らなければならないのである。


なお、個人情報保護法第76条には「他の法令に特別の定めがあるときは、その定めによる」とある。他とぶつかったら、他の法律の方を優先するということである。具体的には、前述した次世代医療基盤法の他、医療法、マイナンバー法、金融分野の個別法などが対象となる可能性があり、その際は個人情報保護法よりも優先される。また次世代医療基盤法の方でも、その設立そのものがそもそも個人情報保護法の“特別法”に位置づけられており、こちらも臨床研究法、がん登録推進法、感染症法などの方がより優先されるのである。その意味では法律の中にもまた上下関係、ヒエラルキーが存在しているともいえるだろう。


医薬品の安全性監視分野での規制

前回とりあげたファーマコビジランス、医薬品の安全性監視分野における法規制では最上位となるのが俗に言う薬機法である。その昔は薬事法と呼称していたが、医療機器がハッキリと加わり名称が「医薬品医療機器等法」となってからは薬機法というのが略称である。


この下に関連する省令としてGVP省令とGPSP省令とがある。その他「G〇〇〇P」という表現は製薬産業ではお決まりの名称フォーマットであって、必ずしも医薬品に限定しないのだが、具体的には以下のようなものがある。


l  GMP (Good Manufacturing Practice)                   製造管理・品質管理基準

l  GQP (Good Quality Practice)                               品質保証基準

l  GVP (Good Vigilance Practice)                             製造販売後安全管理基準

l  GPSP (Good Post-marketing Study Practice)        製造販売後調査基準

l  GLP (Good Laboratory Practice)               非臨床試験の基準

l  GCP (Good Clinical Practice)                               臨床試験の基準


このうちGVP省令では副作用情報の収集、評価、報告の義務やリスク管理計画書(RMP、Risk Management Plan)の策定などが義務付けられている。GPSP省令の方は安全性監視を目的とした調査・試験を実施する場合のルールであり、これまで製薬企業での私の仕事のほとんどはこの省令に関わっている。


前回も取り上げたのであるが、このGPSP省令ではおよそ薬害の再発防止策としては心許ないというのが持論である。他剤を処方した人と比較することもなければ、薬剤疫学分野における科学的方法論により事後に発生した有害事象・有害反応との因果性の推論についても言及していない。責任者を設定するよう義務付けるのはよいのだが、その責任者は薬剤疫学に関しての専門性等が言及されていない。もちろん、全ての製薬企業がそうであるということではないのだが、責任者の立場の人は仮に薬剤師や医師であったとしても概して疫学論文を読了するスキルが不十分なことが多く、それ故に仮に他国において薬害シグナルが発生しても論文の読解力の不足から「正しく」気づくことが出来ないのである。


規制のあり方の議論

法規制において最上位にあるのは憲法である。前回とりあげた薬害に関して、これは二度と起こしてはならないという思いについては誰もが共通のことではある。同様にして「戦争反対、二度と起こしてはならない」という思いもまた誰もが共通するものであって、その意味では「戦争反対=憲法改正反対」という摩訶不思議なロジックを信じ切っている人が一定数、いるようであることは私にはかなり違和感がある。各国ではその時代に合わせてしばしば憲法を改正しており、時代に合わせることなくただ遵守さえすればよいというのは世界の常識とは違っていると言えるだろう。


思えば法規制もまた経済(経世済民)と同じく自然物ではなく人間社会が生み出した“便利品”でしかない。それ故に社会にとって「不便」なのであれば本末転倒であり、私たちのよりよい生活やよりよい社会を構築するために法規制は定まるのである。もちろん、一個人にだけ便利ならそれてよいというものではなく、各人がそれぞれに便益を得られるよう、あくまで自分の幸せは他人の幸せを損ねてはならないというのが日本だけでなく各国の法規制のコアであるとも言えるだろう。


課題となるのはそれを踏まえた「より良い社会」のあり方であり、その具現化は各国各様であるのだが、民主主義国家において拠り所とされていたのがベンサムの提唱した功利主義、「最大多数の最大幸福」である。簡単にいえば100人中90人が幸せになると期待される法制度よりも、100人中98人が幸せになる法制度の方が優れる、といったところであろうか。直観的にもこの価値観は受け入れやすい。


一方、それを批判したのが正義論哲学者のジョン・ロールズである。自身が劣悪な環境で産まれたり身体に障害があったりしていないのは、言わば“ガチャ”なのであって、然るにそのガチャで不利益な人を配慮する、恵まれた人はその配慮に対してちょっぴり不便が生じてもその方が良い社会とした。先進国における只今の法規制は功利主義を上書きする形でロールズの正義論を拠り所にしていると言ってもいいだろう。


どこまでを規制するのか

ロールズの正義論や憲法の議論とは別に、もっとシンプルな課題は「どこまでを規制し、どこから規制しないのか」というものである。一律に守ることは統制がとれる半面で、冒頭の狂歌のように息が苦しくなってしまうのが常である。例えばファーマコビジランス領域においては、報告された医薬品による副作用症例については60日以内、あるいは内容によっては30日以内に報告しなければならないとされる。先の“紅麹事件”では紅麹が医薬品でなかったということで被害の拡大に国として気付けなかったという構図があり、やはり期限内報告は重要だなという向きもある。サプリメントも薬機法の如くに規制を強化すべきなのかどうか。


その一方で、今や“情報沸騰時代”である。インターネットやSNSを見れば、あるいは生成AIを使えば副作用報告制度に該当するような症例情報をほんの一瞬で何万件も見つけてくることだろう。GVP省令に則り1人の副作用報告をする労務を考えると、これを生真面目に実施するには各製薬企業のファーマコビジランス領域の担当社員は数百人どころか数千人は必要となってしまいかねないのである。この現実に薬機法、GVP省令は追いついていないというのか、製薬企業のファーマコビジランス担当者はネットやSNSをあえて“見ないようにしている”というのが実情だろう。


こうした時代に即した規制の更新の是非とは別の視点として、いわゆる“方法の目的化”が懸念される。方法の目的化とは社会学分野の概念であるが、簡単にいえば「どうしてその方法を行っているかどうかはわからない、興味がない」となってしまい、「そのルールさえ守ればそれでよろし」という心理のことである。仮に副作用症例について「期限までに報告することが全て」となってしまうと、肝心な「薬害のシグナルをいち早く察知する」とか、以降に研究・調査を実施することで場合によっては販売中止も考えなければ、といったファーマコビジランスの本質が忘れさられてしまいがちになる。


要するに自分の頭で考えるヒマがなくなり、思考停止に陥ってしまう、というわけである。確かに企業に属していると、法規制を直接変更できる立場にはないため、順守することには誰もが強く認識する一方で、それは何のために実施しているのか、もっとよい規制はないのだろうかということに関心を示す人は限定的である。業務時間中にそのようなヒマがないという「言い訳」もまかり通ってしまう。規制を強化すればするほど、民間人は自分の頭では考えなくなってしまうという側面があり、これがまた難しいところである。


約束を守ることの“快感”

哲学者フロムは「自由からの逃走」と表現する。サルトルは「人は自由の刑に処せられている」とした。「自由」とはハッピーな用語なのだが、自由が過ぎると私たちはストレスを抱えてしまうようである。それ故に規制もない中で、果たして自社品が他社の医薬品と比して劣ることは無いのだろうか、そのために自ら率先して研究を実施し、その結果によっては発売中止を考えなければ、などと動く製薬企業の社員はいないだろう。



その意味ではある程度の規制がされることを歓迎するエネルギーは民間企業側にもある。何よりやることが決まれば、その担当者を何人アサインするのか、人数のマネジメントがそれによって出来る。規制をハッキリさせなければ、他社と比して多い担当者の人数が「本来的な薬害防止のための正義の担当者」ではなく、経営の視点では「余剰人員」とみられてしまうのがオチである。


冒頭の狂歌、川柳、あるいは俳句や短歌は日本独自の言語文化だという。決められたルール、五七五、五七五七七守ることの面白さを私たち日本人はよく知っている。「寛政の改革」同様に、規制がガチガチになるのは息苦しいし、思考停止を招きかねない。ただ、もしかしたら生真面目な気質の日本人の多くが無意識の中で「自由からの逃走」、規制強化を歓迎したり、その変更を阻止したりといった力学につながっているのかもしれないと折にふれ思ったりもするのである。


「続・疫学と算盤(ソロバン)」第30回おわり。第31回につづく




 
 
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