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第31回:のろいの呪文を解く

  • 11 分前
  • 読了時間: 13分

2026年8月17日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                 (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第31回:のろいの呪文を解く


聞き間違え

先日、友人のH氏が会社を退職し新たに法人を立ち上げるということで、そのお祝いを共通の知り合いであるM氏と一緒にしようということになった。18時に予約したお店に一番乗りで私が着いたのが10分前、M氏の影が見えたのはその5分後くらいだったと思う。


ところが驚いたことにM氏は店員と少し話をすると何故かお店を出て行ってしまった。私の席からは薄いカーテン越しに入り口の人影は見えるものの、顔まではハッキリしない。M氏ではなく別の人だったかな、と思っていたところに主役のH氏が着たのが約束の18時であった。



M氏は時間を守る人だし、あの人影はM氏だろうと確信を強めていたところに案の定、M氏からメールが着た。「18時からの予約ではなくて、18時半からの予約でしたっけ?間違って18時に着てしまったので云々」。やはりあれはM氏であった。


どうしてそのような行き違いが起きて、M氏は入店してすぐに外へ“追い出されてしまった”のか、お店の人に聞いたらその答えがわかった。店員いわく、M氏が「オオキさんで18時に予約している」とおっしゃったので、「オオキさんのご予約は18時半ですよ」とお伝えしましたとのことである。


アオキとオオキ、確かに聞き間違えしてもおかしくはない。店員は「オオキさんからの予約メールの印刷もお見せして確認して頂いた」とのことであったが、照明は控えめだし、外から来たM氏が暗がりの中で、それをしっかりと確認するのは難しかったに違いない。何より隠れ家的なお店でせいぜい20人ほどしか入れないお店に「アオキが18時に、オオキさんが18時半に予約」という“奇跡”がおかしく、ほどなくして再入店したM氏と3人で大笑いしたところである。


今回はコミュニケーションについて取り上げてみたい。コミュニケーションの重要性を今さら語る必要もないだろうが、医療の周りでは特に医者と患者のミス・コミュニケーションはしばしば問題となる。また、医薬品の副作用防止策としてのリスク・コミュニケーション学は学問領域でもあり、その目指すところは疫学と近いところにある。


知識の呪い

「知識の呪い」という言葉をご存知だろうか。自身がわかっていることを聞き手も当然、知っているに違いないという思い込みのことである。知識のあることは大抵の場合よいことなのだが、ときにそれがミス・コミュニケーション、「呪い」となる。


誰しも経験があるかと思うのが、例えば生物統計学、ひいては数学や算数を学んだときの「さっぱりわからない」状況などは恐らくこの「呪い」が関係している。数学の説明をしてくれる教師らは数学に長けた人である。数学が得意なのであれば、分数の割り算であるとか、三角関数、微分積分の概念についてつまずいたことがないだろう。聞き手が置いてけぼりになっているとはつゆ知らずに、肝心なところを端折りながら説明を続けるということになりがちである。


人のことばかりを批判したいわけではない。講演や執筆をなりわいとしている私もまた、聴講者の理解が不十分な用語を詳しく説明することなくお話してしまっていることがあるに違いない。以前、とある企業に伺って医療データの活用をテーマにしたリアル講演をしたことがあるのだが、当然と思って使った用語が聴講者にとっては初めて聞く言葉だったらしく、ほとんどの人がそのタイミングでメモ書きをされたことをよく覚えている。こうした私の思い込みに気付けたのはリアルだったからであり、オンラインによるプレゼンが主流となった今ではそれに気付くことも難しい。私の講義も知らないところで聴講者を置いてけぼりにしているに違いない。これはオンライン・ネット技術の弊害ともいえる。


一方でその昔は講義の中でキーとなる用語がわからないために、以降の説明が全くわからないという事態になるということが今では起きにくくもなった。手元にスマホやPCさえあれば、「知識の呪い」にかかってしまった講師の説明であっても、不明なところは生成AIに聞けばたちどころに教えてくれる。講義が終わって理解が足りないところについても生成AIは私たちの理解促進に愚痴も言わずに付き合ってくれるのである。こちらは逆にオンライン・ネット技術の恩恵である。


「標準治療」の誤解

医療分野におけるミス・コミュニケーションをもたらす用語のワースト1位は何だろうかと聞かれたら、私は迷わず「標準治療」と答えるだろう。医療分野ではよく情報の不均衡、つまり医療者の方が患者側と比べて病気に対する知識量が各段に多く、「知識の呪い」にかかった医者の説明に対して患者が理解できないことも多いのだが、この「標準治療」という言葉はむしろ「理解した」と“誤解”されるのが問題となる。何故ならば「標準」という言葉は聞き慣れていて、それは「普通の」とか「一般的な」「平均的な」といったニュアンスである。それ故に、「先生、標準治療って何ですか?」とはならない。患者の方では松竹梅でいうところの「竹」にあたる治療選択肢のことなのだな、と理解するのである。


ご存知の通り(と表現するのは私が「知識の呪い」にかかっているのかも?)、標準治療とは言わばベストオブベストな治療のことであり、松竹梅でいえば「松」であり、多くのエビデンスに基づく“王様”の治療である。この王様がその座を奪われるのは簡単なことではない。これを凌駕する挑戦者たる新たな治療法の登場とその“証明”を待たなくてはならない。介入研究を1つとはいわず複数で行ったり、RWDにて当該研究結果が一般化できるかどうかを確認したり、あるいはシステマティックレビュー、つまりいくつもの研究結果を統合した評価をしたりすることでようやく“王者奪還”のチャンスが訪れるのである。


恐らくであるが、怪しげな民間療法をなりわいとするような輩(やから)は、「最新の治療」「新たな治療」などといって、あたかも標準治療よりも優れた治療であるかのような、エビデンスのない、あるいは乏しい治療を勧めているに違いない。こうしたオファーは詐欺行為のようでいて、しかしながら標準治療よりも最新の治療の方が優れているという思い込みは、患者(治療選択者)側に原因があるため有罪とはなりにくいだろう。標準治療を選択せず、怪しげな「最新の治療」「新たな治療」に飛びつき、高額なお金を支払い、本来ならばもっともっと延命できたはずの命がそこで途絶える。そんな悲劇を引き起こすのもまた「標準治療」という、勘違いしやすいワードのせいだと私は思うのである。


エビデンス

前述した文章にもある「エビデンス」「介入研究」「システマティックレビュー」なども、わかっているようで誤解しているワード群である。特にエビデンスという表現はコマーシャルでも登場するなど日常的なものとなっており、しばしばエビデンスがある、ない、といった表現がなされるのだが、この表現は正しくない。


エビデンスという言葉を日本語で「証拠」と翻訳するのは悪くないのだろうが、科学の分野にあっては「科学とは何か」といった科学哲学と「エビデンス」の概念は裏でつながっていて、そこがややこしい。どうやら社会一般には「科学=エビデンスが有るもの」、「非科学=エビデンスが無いもの」というニュアンスで認知されているようだが、それはエビデンスという言葉の誤解に加えて科学の何たるかを知らないことも関わっているのだろう。


科学の何たるかについてその定義を「反証可能性」としたのはカール・ポパーである。ポパーはある理論や主張が「実験や観察により誤りであると証明できる余地があるかどうか」、それがYesであれば科学であり、Noであれば似非科学であるとした。つまりいくつもの研究により「水は100℃で沸騰する」ことがわかり、その帰結として「水は常に100℃で沸騰する」という“エビデンス”が得られたとしたらこれは科学である。何故ならば「本当にそうだろうか」疑う余地があり、反証のために高山で水を沸騰させてみるといった検証が可能だから、それが科学なのである。どうやら「水の沸騰温度は標高により変化する」という、新たな“エビデンス”がそこで生まれ、そしてまたこの新たなエビデンスもまた反証の余地を残す。決して科学は「100%正しいことが証明された」というものではないのである。



一方で「水を沸騰させているのは神様の力である」という主張があったとすれば、これは科学ではない。反証のしようがないし、たとえばジョージ君がその神様とはキリストだと主張し、ムハンマド君はその神様とはアラーだと主張したとしても、その主張自体は自由であっても、反証のしようがないのでそれは科学ではないのである。話し合いが平行線になるくらいであれば可愛いものだが、時として宗教と宗教の意見の食い違いは戦争にまで発展する。


「科学」という言葉がそうであるように、「エビデンス」という言葉もまた決して100%正しいという意味を指すものではない。いわば確証度の濃淡を示す言葉なのであって、それゆえにエビデンスとは「ある」「ない」の二元論で表現するのは本来おかしいのである。受け手に誤解されないようにするならば「エビデンス」という言葉はむしろ封印してしまった方がいい。「多くの臨床研究で確認されている」「システマティックレビューにより確認されている」といった表現にすれば、それが高いエビデンスであることが伝わるだろう。他方「日本人データは無いが、欧米人では確認されている」とすれば、確証の度合いには留意が必要なのだな、と正しく伝わる。結果を日本人には一般化しきれないという限界もあるが、それでもなお同じ人類なのであるからエビデンスが皆無ということではないのである。


医学系の研究で使われる用語

他方、「介入研究」「システマティックレビュー」といった言葉は医学・薬学系の研究ではよく利用されるが、こちらは研究分野における専門用語と言ってよい。「標準治療」「エビデンス」と比べたら普段の会話では登場しないだろうし、思い違いがされない分、マシといえる。もとより「介入」という言葉自体は「軍事介入」「日銀による為替介入」といったようにニュースなどで聞き慣れているものであり、何らかの茶々を入れる、というニュアンスで知られている。それでも「介入研究」という言葉を初めて聞いた人が、「ああ、それね。わかるわかる」とはならないだろう。ソクラテスの「無知の知」ではないが、知らないと認識できれば聞き返したり、生成AIやネット検索するなどしたりと今では手軽な選択肢もある。


また、話者である方はその説明について辞書引きしたものそのものだけで紹介する人もいるが、それだけでは少しお堅い“学者”的アプローチと言えるかもしれない。大学の先生などは例えば「介入研究」について、辞書引きした定義で紹介し、“悪く言えば”そこで自身の責任を逃れる。私がもし「介入研究」について説明するのであれば、辞書引きした定義は提示するものの、「観察研究とは違い、当該の患者さんにとってはベストな治療が選ばれない可能性がある研究です」などと補足するかもしれない。プレゼンターや文筆家は、その補足に価値を見出すものであり、そこが学者とは異なる態度といえる。


同様にして、「システマティックレビュー」とは、関連する論文を網羅的に集めるアプローチであり、エビデンスレベルとして“最高峰”に君臨する。しかしながら一方で、正しい手続きをして評価すべき論文が網羅的でなかったり、複数の研究間で症例が重なったりしているものも案外ある。また一方で出版バイアスと呼ばれるところの「あまり面白くない研究結果」が世に出ていないという偏重の問題を内包するアプローチでもある。こうした限界を理解したうえでその“最高峰”のエビデンスレベルは評価すべきであろう。


加えて「メタ・アナリシス」という言葉も聞かれるようになった今では、それがシステマティックレビューの方法論の一種であるといったような言葉の関係性を補足するのが良かろう、そんな風にプレゼン・文筆をなりわいとする私は考えたりもする。本コラム「疫学と算盤」の存在意義もそこにあり、辞書引きされた用語の定義は必要最小限にしている。

 

知る人ぞ知る、“業界用語”

言葉としては日常使いされているものの、当該の業界では別のニュアンスをはらむという言葉も、また誤解を生む温床となってしまうことが多々ある。例えば製薬企業において医薬品の有効性を示すための研究で用いられる有意差検定は、英語では「test」である。今どきの生成AI等、翻訳技術の向上は目覚ましく、こうした英語を日本語に訳す際には文脈や領域まで踏まえてちゃんと「検定」と翻訳してくれるのだから素晴らしい。これを「テスト」と翻訳してしまうと、日本人が正しく理解するのが難しくなるのは自明であり、こうした業界特有の日本語訳は他の業界でも結構あるだろう。


調査・試験・研究という3つの日本語も、製薬業界ではそのニュアンスに特有性がある。行政当局は医薬品の認可に資する研究のことは「研究」とは言わずに「試験」と呼称するのがならわしであるのだが、そんなことを一般の人が知る由もないだろう。一方で「試験」に該当しない研究のことは「調査」と表現される。大学機関等、アカデミアの人にとってみれば試験だろうが調査だろうが一律に「研究」と表現するのが一般的であり、論文投稿するならば行政も製薬企業もこれは「研究」とする。ややこしいのである。


医薬品の製造販売後に実施されるところの市販直後調査と、製造販売後調査もまた、まるで違うものを同じ「調査」と表現したため、当該業界の特に安全性部門(ファーマコビジランス)に初めて来た人は必ず混乱してしまう。市販直後調査とは、発売開始6カ月間、医療機関に対して集中的に注意喚起や適正使用のための情報提供を行うという、いわば「アクティビティ」のことである。一方の製造販売後調査の方は、コホート研究やケース・コントロール研究のような薬剤疫学的アプローチによって行われるものである。どうしてこのような混乱を招く「調査」という名称を双方で用いたのか、私には理解できない。


呪いを解くカギ

コミュニケーション学は案外と奥深いものである。今回は言葉・ワードについて取り上げたが、もちろんそれだけでは十分ではない。相手に理解、納得してもらうためには相談するタイミングをみたり、表現をやわらかくしたりといった工夫は誰しもするだろう。一方で、リスク・コミュニケーションの極みは震災や戦火にあっての緊急事態であり、それは「逃げろ!」といったように、乱暴表現がむしろ正解となる。


さて、冒頭のお店の名誉にも関わるので補足(フォロー?)しておきたい。お店の料理はどれもセンスの光る美味しい料理ばかりであった。肉料理が中心で私はお腹いっぱいになったのであるが、M氏はお店を出た後に「これから吉野家に寄ってから帰ります」という。吉野家はご存知の通り有名な牛丼チェーン店である。肉料理の口直しに肉料理???



M氏によれば吉野家さんが只今、ドラクエ(ご存知、ドラゴンクエストというRPGゲーム)とコラボしており、そのアイテム欲しさにポイントを稼ぐのが目的なのだそうだ。そういえばドラクエの中ではしばしば呪文がかけられたりもする。アオキをオオキと思い込んでM氏を店から追い出してしまった店員さんが「知識の呪い」にかけられていたわけではないのだろうが、M氏は再び同じ“被害”に合わないために呪いを解くためのアイテムを牛丼屋で入手しようとしていたのかもしれない。



「続・疫学と算盤(ソロバン)」第31回おわり。第32回につづく




 
 
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