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第21回:幸せの測量(1)

2022年5月26日

2020年10月20日から、3週間に1回、大手製薬企業勤務で“えきがくしゃ”の青木コトナリ氏による連載コラム「疫学と算盤(ソロバン)」がスタートしました。

日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボWEBサイトに連載し好評を博した連載コラム「医療DATAコト始め」の続編です。「疫学と算盤」、言い換えれば、「疫学」と「経済」または「医療経済」との間にどのような相関があるのか、「疫学」は「経済」や「暮らし」にどのような影響を与えうるのか。疫学は果たして役に立っているのか。“えきがくしゃ”青木コトナリ氏のユニークな視点から展開される新コラムです。

                     (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也



“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム

「疫学と算盤(ソロバン)」 第21回:幸せの測量(1)

アリとキリギリス

イソップ童話、アリとキリギリスのお話を知らない人はいないだろう。夏の間、冬に備えてアリがあくせく働く横で、遊びほうけていたキリギリスは冬を越せずに死んでしまう。私たち人間も、遊んでばかりいるのは良くないことで、勉強や仕事を頑張ればキリギリスみたいにはならないよ、といった教訓と合わせて子供の頃に聞かされたような遠い記憶がある。


私はこのお話と教訓について、子供ながらに大いに違和感、疑念を抱いたことを覚えている。果たしてアリの生き方は私たちが見習うべき正しい生き方であって、キリギリスの生き方は正しくないと言い切れるのだろうか-。多様性が尊重される今であれば多少は許容される可能性もあるかもしれないが、子供ながらに“同調圧力”、右にならえが尊ばれていた社会に身をおいていると認識していた私は、この疑問について誰にも話をしなかったのであるが、ひょっとしたら20人に1人、あるいは100人に1人くらいは私と似たようなところでつまずいた人もいるかもしれない。

これをQOLの視点でみてみよう。アリとキリギリスの寿命が長くても1年で、どちらも春に生まれたとしよう。キリギリスは4月から12月までの9ヶ月、人生を謳歌してそれはそれは楽しい毎日を過ごしていた。彼の奏でるバイオリンは周囲の心を豊かにし、彼もまたそれが楽しい。残念ながら翌年1月1日に大寒波がやってきて、何の備えもしていなかった彼は、今どきの言葉でいうところのピンピンコロリ、当日に死んでしまう。


一方、アリは4月から12月までの間、起きている間は休むことも無く、まるで奴隷のような毎日で冬支度に駆り出される。「これでは生きているとは言えない・・」なんて愚痴もこぼしたくなる。真なる生の半分、つまりQOL(質調整生存年)で換算すれば1の半分の0.5、4月から12月の9ヶ月は9ヶ月という年月ではなく、その半分の4.5ヶ月しか生きていないようなものだ。もっとも、1月の大寒波も乗り越えることができ1月から3月はおだやかな毎日を3ヶ月過ごすことが出来、キリギリスの9ヶ月よりも3ヶ月長い12ヶ月を生きた。


ただしQOLの視点では、アリの人生は4.5ヶ月+3ヶ月=7.5ヶ月しか人生を全うしてはいない。対するキリギリスは9ヶ月の人生を丸々、幸せに生きたのであるから、7.5ヶ月<9ヶ月、つまりキリギリスの方がむしろ望むべき人生なのではないか、という発想である。


先回は幸せを測量しようとして、それがあまりにハードルが高く、医学薬学系の研究ではその“代用”として健康関連QOLを指標に用いるのが常であるというお話をしたが、では人類が幸せの測量を完全に諦めているかといえばそうでも無い。今回と次回と2回にわけて、その悪あがき(?)、「幸せの測量」という、無謀なチャレンジを概観してみよう。


かぐや姫

幸せを測量しようなどというチャレンジは竹取物語でかぐや姫が出した難題のようなものだと私には思えてくる。つまり、竜の首かざりである5色の玉をとってくるような、今どきの言い方でいえば「無理ゲー」なお話である。いったい、どれだけの困難、ハードルがあるのだろうか。主だったものを挙げてみよう。

幸せ測量の課題(1)主観的なものであること

「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」。数多くの名言を残した書道家、相田みつを氏の中でも有名な作品である。主観的幸福感、という言葉もあるにはあるのだが、幸福とはそもそも主観なのであってわざわざ「主観的」と修飾語を付与する必要はないだろう。幸福かどうかは自分が決めるものであって、他人がそれを判定出来るものでは決してない。客観的幸福感などという概念は存在しないのである。


前述した相田みつを氏の作品について、私はこれまで幾度となく使わせて頂いた。管理職として部下からの相談を受ける立場にある人は恐らく共感してくださるかと思うのだが、中には自分がいかに不運であり不幸なのかを毎度、訴えかけてくる人が少なからずいる。私が部下から聞いた言葉の中で特に印象的な言葉は、「私はどこの部署に異動となっても、雨降りにあう運命です」、である。果たしてそんなことがあるのだろうか、とも思うのだが当人は真顔でそう訴える。悲しいかな、幸せ/不幸せというのは環境がそれを決めるのであって、自分には決定権がないという思い込みをして生きているようで、そんなときにみつを氏の言葉をお借りするのである。とはいえ、みつを氏の言葉を借りてもなお、その思い込みを打破できたという経験をしたことはないのだが。


心理学者アドラーはこれを「環境決定論」として糾弾している。幸せかどうかは環境によって決められるものであって、自力ではどうにも出来ないという思い込み。これでは幸せには決してなれまい、というのである。一方で、前回みてきたように、確かに生活に支障の大きな疾病や傷害は周囲からみれば大変そうに感じられ、故に健康関連QOLというスケールは、いわば“客観的幸福感”に概念的には近いともいえるだろう。本来は主観、内面がそれを認識するものであるのに、その代用として客観的指標で我慢しなければならない、そこに幸せの測量の難しさがある。


幸せ測量の課題(2)短期の幸せと中長期の幸せとの違い

最近ではウェルビーイングという言葉をよく耳にするようになった。ウェルビーイングをそのまま「幸せ」「幸福」と日本語訳することも多い。前回紹介したWHOによる健康の定義の中にも「well-being」というワードが含まれており、つまり健康であることに不可欠なピースであるともいえそうである。


一方で、同じ英語でもハッピー(happy)とか、ハピネス(happiness)といった言葉もある。どちらかといえばこちらの方が私たちの考える「幸せ」に近いようにも思える。Well-beingの方は「well(良い)」と「being(在る)」の結合ワードであるので、「善く在る生きざま」といったところのニュアンスになるだろうか。いずれにしてもウェルビーイングがどちらかといえば中長期的な、「私の人生はとても幸せです」といったようなときに英訳される「幸せ」であり、「宝くじが当たった!」といったような幸せはハッピーといったところで、日本語では同じ幸せでも両者は随分と違う概念にも思えてくる。


さらには心理学者チクセントミハイが提唱した「フロー状態」というのもどうやら“究極の幸せ状態”というニュアンスを含んでいる。彼がいうところのフロー(flow)とは、時を忘れるくらい、完全に集中して対象に入り込んでいる精神的な状態であり、例えば長距離ランナーのランナーズハイといった状態といえばイメージも湧くだろう。自分の人生を振り返ってみたとき、生活の中で、仕事の中でまれにではあるがこのような状態になっていたな、と思い出されることも確かにいくつかある。


では、幸せの測量とは何を測ろうとしているのか、何が測りたいのか。ハッピーなのか、ウェルビーイングなのか、それともフロー経験の時間や回数なのか。ここにもまた難しさがある。


幸せ測量の課題(3)スピリチュアリティ

あいにく私には信仰心のかけらもないのでスピリチュアリティ(精神性、霊性)についてはよく理解出来ていないのだが、信仰心の強い人の中にはいかなる劣悪環境も痛みを伴う耐え難い病気も「神の思し召し」として受け入れ、常に幸せを感じるとも聞く。前述した通り「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」ものではあっても、特に医療分野においては種々の治療を受け入れずに、神の思し召しによってその短い人生を受け入れる、という態度の人を説得するのは困難だろうし、正しい行為と言い切れるものでもあるまい。


こうした幸福感を他人がとやかくいうのはおかしいのは確かではあるものの、一方で本コラムが取り上げている医療行為、医療選択肢の善し悪しを知りたくて「幸せの測量」にチャレンジする人にしてみると、QOLこうしたスピリチュアリティが混在すること辛い。分析したい側の勝手な言い分を許して頂くのであれば、これはノイズであり除去したいのが本音だ。こうしたレベルの信心深い人に対しては、いかなる治療も幸せの度合いを変更することは叶わない。こうなるとQOL(質調整生存年)という概念は存在し得ない。要するにQOL=生存年、という人が世界には一定数、居るということだ。


幸せ測量の課題(4)文化による違いの大きさ

幸せを測量するスケールの中でも、10段階のラダー(はしご)による指標は有名である。「あなたの幸せを10段階のはしごで表すとして、何段目ですか?」と聞かれたとき、欧米文化の人はまず10段階の一番上、10段目から引き算方式で考えるのが一般的らしい。もしこの考えに共感できるとしたら、あなたは“欧米的な価値観”に近いと言えるだろう。多くのアジア人はむしろ真ん中の5段目から上なのか下なのかと考えるらしく、私もそうだ。


その他、幸福度調査について国別の比較をしたものを目にすることも多いのだが、こうしたスケールは大抵の場合、欧米で開発されていることが多く、要するに欧米文化的にみた幸福度に影響する質問項目だけで設計されている。私の知る限り、こうした欧米由来のスケールでのランキングでアジア各国が上位にくることはほとんどないのだが、かといって「なるほど、アジアって不幸(と感じている)な人が多いのだな」と解釈するのは注意した方がいいだろう。単にアジア諸国の人にとって幸福/不幸を判定する指標として相応しくないだけである可能性が否定できないのだ。


例えば、休日の過ごし方などは、アジア地域で特に何も予定が入っていない状態を「幸せ」と感じる人も多いらしく、これは欧米ではあまりみられない幸福感だという。洋の東西にこだわるわけではないが、確かに何も予定がないことを不幸せに感じる人もいれば幸せに感じる人もいる。これを個人間による誤差と言い切れるならばむしろ分析上はノイズ的な処理が出来るのだが、ここに国別や文化の差による偏重があるとしたらそのバイアスの除去は容易ではない。それ故に世界共通で納得性のある、フェアな幸福度の測量などはなはだ無理だろう、と思えてもくるのである。


幸せ測量の課題(5)身体性と社会性との混合

前回紹介した健康関連QOLを測るスケールは、幸せに影響を及ぼす身体性に特化した質問項目で形成されるが、WHOの健康の定義にもある通り、健康という概念の中には社会性も含まれており、幸福の概念もまた然りである。癌に罹患したことで損なわれる身体性の課題と、それを理由に離職し無職となることは全く異なる辛さである。また、当人の罹病とは別に、例えば肉親が寝たきりとなりその看病のために仕事を離れなければならないといったことも幸福測定においては重要な社会的因子となる。


これまで幾度か例え話として取り上げてきた、「ピアニストにとっての手のしびれという副作用」などは身体性でもあり社会性でもあり、当該の疾患以上に当人を絶望の淵に落とし入れる可能性さえあるだろう。また、容姿に関わる影響-例えば顔の印象ががらりと変わる等-はピアニストのような個別の案件ではなく、より多くの人にとって社会性の面からQOLにダメージを与える。果たしてこのように入り組んだ身体性と社会性をどのようにセッティングしたら適切な測定スケールが出来るのだろうかという課題がある。少なくとも健康関連QOLはこうした視点を持ち合わせていない。


幸せ測量の課題(6)比較的なものと絶対的なものとの折り合い

経済学分野では地位財と非地位財という概念で整理されるところの「他人の目」は私たちの幸福感に大きな影響を与える。高級車の購入や子供の学歴といったものは他人の目に関わる“財”であり、地位財である。一方、勤務先までの通勤時間は非地位財というわけである。


興味深いのは例えば年収500万円の家計であっても、隣近所の平均的な生活レベルと見比べたら裕福だと認識すると私たちは幸せを感じるのに対して、仮に年収が1000万円であっても高級住宅街で暮らしている場合は相対的貧困を感じて不幸せを感じる心理である。故に幸福を測ろうとする際に、年収や貯蓄を聞いただけでは的外れな指標となりかねない。冒頭、幸せは自分が決めるとは言ったものの、私もまたアタリマエのように人と比べて幸せを感じたり不幸せを感じたりする呪縛からは一生、逃れられそうもない。


幸せ測量の課題(7)将来の幸せ感

大ヒット映画「マトリックス」は、現実世界ではなく幻想世界の中で展開される。レオナルド・ディカプリオ主演の「インセプション」では、訓練により何階層も深い夢を見ることができる夫婦が、その共有された夢の中では現実世界の何十倍もの長さで一緒に暮らしていた、いう設定である。こうした世界について以前はSFの世界として認識されていたものであるが、メタバースがアタリマエになったこれからの世界ではどうだろうか。


リア充という言葉は、リアル、つまり現実世界が充実したことを指すワードであるが、これもまた逆説的には「リアルではない充実」が生まれたことの象徴ともいえるだろう。メタバースの中でスーパースターになるということは、もはやネットゲームやeスポーツ世界で活躍している人たちそのものでもあり、もはや“現実”である。こうした世界にあっての幸福感というのは一体、どのようなものになるだろう。あまりに仮想世界に入り込んでしまう“ネット廃人”に象徴されるように、その世界が人類にとって望ましくはない世界となる恐れがある。その一方で、映画「アバター」の主人公は現実世界では下半身不随であるが、アバター世界ではそれは認識されない。このことはリアル世界では達成しえない、メタバースの中での“病気の完治”、幸せをもたらす可能性も秘める。


花咲か爺さん

アリとキリギリスの童話に違和感をもったのは小学生のときであったが、この年齢になって「花咲か爺さん」にも違和感を覚えるようになった。大判、小判がザックザック、と歌われるのだが、果たして高齢になって突如、大金が手に入るというのはどのくらい幸福感に影響することなのだろう。若い頃であれば純粋に嬉しい感情もあるのだが、この正直爺さんというキャラ設定からしても、さして幸せには影響しないどころか、むしろ困ったりはしないものだろうか、なんて思ってしまう。


一方で、隣の意地悪爺さんの方はその意味では生命力旺盛なようで、2番煎じでポチに宝のありかを見つけるよう強制する様子をみると、どうやらこの人にとって大判、小判はその貨幣価値に相応しいかまたはそれ以上の価値を感じていることがみてとれる。


哲学者ベンサムは人類の目標として「最大多数の最大幸福」を掲げた。私にとっての1万円と、大金持ちにとっての1万円、あるいは貧しい人にとっての1万円は幸福度として明らかに異なるものであろう。ベンサム的にいえば貧しい人にその1万円を与えることが人類全体の総計でみれば最も幸福度を上げる、ということになるのだろう。このロジックで花咲か爺さんを考察すると、正直爺さんではなくむしろ意地悪爺さんに大判、小判が与えられる方が人類的にみて正しくある。、、、、あれ?


第21回おわり。第22回につづく

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