2021年11月29日


“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム
「疫学と算盤(ソロバン)」 第15回:妥当性って何?
投票という名のエンターテイメント
先回のコラムで大谷翔平がMVPに選出されるかどうかという話に触れたこともあってか、実際に選出されたことは嬉しいというよりもホッとしたような妙な安堵感もあった。彼が選出されたことは全く妥当なこととはいえ、それでも選考メンバー全員が1位票(MVPは1位、2位、3位を選ぶ形式)であったことは大きく取り上げられている。
例年のように比較しやすい打力勝負ではなく(注:メジャーリーグのMVPは最も好成績を残した野手が選ばれる傾向にある)、投手兼野手という、他の選手との比較が困難なプレースタイルであったことも手伝って、違う考え方をする人が出てもおかしくはなかったからである。

野球のMVPに限ったことではないが、投票で決めるという方法論は投票者の価値観の違いが色濃く出るため、しばしば物議を醸し出すものである。実際のところ日本のプロ野球におけるMVP-最も価値のある選手-表彰では、基本的に「優勝したチームの中でキャプテンシーを発揮した」因子が強く意識され、個人タイトルであるにも関わらずチームの優勝なくしてこのタイトルをとるのはかなり難しい。一方で、視点を換えてみれば選手の価値なるものは数字で測れない部分があるのは確かであり、また「人間の多様な価値観が混ざり合う」ことは、そもそも野球やその他のスポーツ等、エンターテイメントにおける“投票というエンターテイメント”でもあり、ハラハラどきどき、結果が出ることが面白くもある。
それでもやはりエンターテイメント性が高いからといって、妥当な測定指標があるにも関わらず投票という方法を用いるということは無いだろう。より妥当な指標があれば社会からの納得も得られる。コロナの例で考えてみれば、昨年の発生当初では「昨日と比べて○人の増加/減少です」といった報道が主であったが、今年に入っては「前の週の同じ曜日に比べて○人の増加/減少です」が主流となった。発生傾向には曜日の周期があり、同じ曜日と比べることが“妥当”だと社会が判断したのである。ところでこの「妥当性」というのは一体、何者なのだろうか。
測定方法の進歩
「妥当」という言葉について手元にある辞書で調べてみると、「よくあてはまっていること。ちょうどよいとみとめられること。」とある(恥ずかしながら小学生向けの辞書しかなく、ひらがなで説明されているのはそのためだ)。コロナ罹患数の増減を同じ曜日で比較するというのは、“前の日と比べるよりもよく当てはまる”というわけだ。ところがこの「妥当」を見つけるのが極めて困難な場合も多々あって、まさに今、コロナ禍にあってロックダウンなのか緊急事態宣言なのか、飲み会は4人までか8人までか、「妥当」の判断は人によってまちまちである。
病気の診断も、適切な治療法の選択も含め人間の主観によって判断しなければならないことは往々にしてある。医師法は病気の診断等を理解したものだけがこれを行ってよいという意味で、ヒトによる判定という揺らぎを相応に妥当なものへと押し上げているという見方もある。そのようにして考えてみると、測定器という文明の利器が何とありがたいことか。今でこそ当たり前になった体温計や血圧計など江戸時代には無かった代物である。