第16回:経済とは何か

2022年1月5日


“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム

「疫学と算盤(ソロバン)」 第16回:経済とは何か

弥太郎と栄一

緊急事態宣言措置から開放され、ずいぶんと久しぶりに会社の同僚と4人でランチ会をし

たのだが、土佐料理のこの店ではどうやら地元出身の著名人の似顔絵をコースターにして

いるようであった。同僚の席をみると坂本龍馬、ジョン万次郎、山内容堂とそれぞれ違う

コースターが置かれていて、私の席のコースターに描かれていたのが岩崎弥太郎さんであ

る。岩崎弥太郎。一代で三菱財閥を作り上げた日本の商業を代表する偉人だ。


丁度その頃は、大河ドラマ「晴天を衝け(つけ)」で中村芝翫(しかん)さん演じる弥

太郎が主人公の渋沢栄一と激しいバトルを繰り返しているところで、中村さん演じる弥太

郎の顔はコースターと瓜二つ。栄一の思想は道徳と経済の合一、合本主義(多人数の共同

出資による経営)であり、ドラマの中での弥太郎は自己の利益ばかりを優先する独立主義

が強調された“悪役”のようで少しばかり気の毒でもある。



私自身は営利企業の中で働く者であり、それが製薬会社であっても、水道会社であっても、遊園地の経営であってもこれらは社会システムとして公的な側面もあり、国家に納税しているものであるから皆々尊いものだという考え方をしている。缶コーヒーのCMが言うとおりで、「世界は誰かの仕事でできている」。その意味では弥太郎が決して悪人などではなく、その類い希なる商才をもってして国益にも貢献したことを思えば決して一方的に批判されるものではないだろうとも思うのである。


さて、本コラム「疫学と算盤」は、読者の皆さんご推察の通り渋沢栄一さんの「論語と算盤」からインスパイアされて思いついたタイトルである。これまで取り上げたテーマの全ては「疫学」関連であり、大河ドラマも最終回を迎えた今、そろそろ「算盤(ソロバン)」の方のお話を取り上げなければタイトル詐欺(?)になりそうで今回は経済学について取り上げたい。


ところで、渋沢さんが生きていた時代の武家社会では商業そのものが卑しいことだといった価値観が主流であったと聞く。これは昔話では決してなく、今でも産官学での集会や臨床医との対話の中では「お金の話はするな」といった、ひとくくりに「お金儲け=悪いこと」という価値観が表出する場面にもしばしば出くわして戸惑うこともある。こうした(少なくとも私にとっては)謎の価値観が残存しているのは、およそ世界全体として経済学という学問領域が何たるものか正しく理解されておらず、ひょっとしたら「経済学=お金を儲けるハウツー学問」か何かのような大いなる誤解が背景にあるようにも思えるのである。


貨幣(お金)について考える

経済学の本質は「経世済民(けいせいさいみん)」、つまり「世の中を治め、民衆を苦しみから救済する」学問である。然るに経済学を極めようという人は、お金持ちを目指そうということではなく、社会課題を解決し善き世を作ろう、そのために貢献したいという人だろう。私は経済学者では無いのだが、こうした「経済学=金儲け学」という誤解がはびこっていることを残念に思う。一方で、その経世済民を実現するための手段として経済学はしばしば「お金」を上手に利用し回すことでこれを実現しようとする。その意味では「お金」とは切っても切り離せない関係があることも確かだ。一方、専門ではない立場の私たちも「お金」が持つ特徴や機能をしっかりと理解することは重要だろう。でなければ、「銀行の預金残高が増えることだけを楽しみに生きていく」といった、残念な人生に転がり落ちてしまう恐れがある。さて、「お金(貨幣)」とは一体何で、どこから生まれてどこへ行くのだろう。主たる特徴として以下、3つの角度から眺めてみよう。


(1)スマート物々交換

タイムトラベルをしてお金の誕生した時代を見てきたわけではない。ただ、「物々交換は不便」ということから、持ち運びしやすいように珍しい貝殻であったり鉱物であったりをその仲介物として使い始めたことが恐らくはお金の始まりなのだろう。ともすれば何トンにもなる食料用の動物を持ち運んで、他者と折衝のうえ農耕具と交換するというのでは骨が折れる。問題はその「珍しい貝殻」をどのようにその交換物と等価の価値を与え、それを双方で共有することが出来るのかというところにある。


世界的大ベストセラーとなった「サピエンス全史」の著者である歴史学者ハラリ氏はホモサピエンスの特性として、「虚構を信じる能力」の優位性を本書の中で語っている。氏によれば、当時の地球上にはネアンデルタール人等、私たちよりも優秀で体格的にも優れた人類はいたが、目には見えない様々な虚構を信じることが出来たことでホモサピエンスだけが人類の中で唯一、生き残れたらしい。確かに「相互の信用」なる、目には見えない「虚構」を信じられたからこそ「お金」が生まれたのだとすれば、我々ホモサピエンスのもつ「虚構を信じる能力」という特性が、貝殻や鉱物を物々交換の仲介として利用できた謎をスッキリと説明することが出来る。


「金本位制(きんほんいせい)」なる言葉は、学生時代に学んだきりで日常会話の中ではおよそ登場しないワードだろう。これは1816年にイギリスで始まった金(きん)を通過の価値基準とする制度であり、物々交換のスマート化への歴史を語るうえでは外せない。様々なモノの価値を金(きん)の重さで表すことが出来れば、均質性や安定性に課題のある「貝殻」より信頼度において随分とマシになる。よりスマートな物々交換、貿易を進めるうえで人類が通る道として必然なものであったといえるかもしれない。


ご存じの通り金本位制は既に各国で廃止されており、さらなるスマート化の先である現代において「お金(かね)」なるものは、虚構であるところの「相互の信用」に先祖返りしているといえそうだ。この先の未来についての予想も難しくはない。日本では遅れ気味であるが既に先進国各国ではクレジットカードやスマホ決済に代表される種々の“バーチャル”ワールドが進み、硬貨や紙幣を使う機会をどんどん減らしてきている。ビットコインなどの暗号資産(「仮想通貨」から改名)も然り。言うならばお金の世界はますます「虚構」の色合いを増やしているのである。


(2)共同作業の支援

「納税」というとネガティブな響きにしか聞き取れなかったりもする人も多いだろうが、お金がもつ「スマート納税」機能は極めて重要な機能である。


お金の無い時代を想像するに、川の向こう岸にまで行ける橋を掛けようと考えた人がいたとして、そうだそうだと一致団結して実際に橋を架けることができるのは、せいぜい100人規模の賛同者で出来る“公共事業”に限定されるだろう。現代のような例えば本州を北海道や四国とつなぐ橋を架けようとするならばやはり「虚構」であるお金を何万人、何十万人の人から少しずつ出し合ってもらってようやく成立しえる事業と成り得る。このようにして治水や下水の整備、学校や警察の機能といった、到底100人規模では実現し得ない「皆で力を合わせる」社会システムの構築は、納税つまり「お金を出し合う」ことでその実現性をもつのである。


共同作業という側面では「納税」とは別に「株式会社」という“虚構”もまた重要な人類の発明品といえるだろう。大航海時代における、莫大なコストと、沈没という大きなリスクを背負う船を使った貿易には、例え大金持ちであってもその事業の開始を尻込みしかねないが、船の沈没リスクを皆でお金を出し合って作る株式会社ならばリスクは分散され、事業として成立し得る。「スマート物々交換」を発祥としたお金がこうした「共同で事を成す」潜在機能をもっていると洞察できた古代人が居たのかどうかはわからないが、少なくとも日本初の株式会社を作った坂本龍馬や、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一は欧米にあったその仕組みの有用性を正しく見極め、日本に“輸入”することに成功したのである。


(3)インセンティブ(やる気スイッチ)

今や私たちが水や空気と同じように資本主義社会の中に暮らし、ほとんど全ての人類が貨幣を獲得するために奔走する社会の到来についてもやはり、貝殻で物々交換していた時代の人たちは到底想像することが出来なかったであろう。水や空気は「現実」であるのに、資本主義は「虚構」である。それでも、もはや私たちはお金を稼ぐということを動機付けとして仕事を選び、その逆にお金にもならない仕事を避けることが身体に染みついている。お金を貰えないのに会社に勤めているという人は皆無だろう。これは民間だけの話ではない。一部の官僚や医師が「お金の話はするな」と言葉を荒げたとしても、社会システムをより適切な方向へ向かわせるためには、診療報酬におけるオンライン診療料の新設や治療アプリの医療機器としての認可等々、その政策の決め手となるのは、お金をやる気スイッチとして用いる方策が有効打となる。



インセンティブとしての「お金」の効用は望むと望まざるに関わらず、国家間紛争にも関わる。共産主義という政治思想そのものは間違った思想だとは思わないが、地球上のどこかに資本主義が存在している場合は、「もっとお金を儲けるため」というインセンティブの存在によって、どうしても共産主義社会からお金を稼げる能力のある人材が流出してしまう恐れがある。野球の上手なキューバ人が、これまで何人、アメリカに亡命したことだろう。特にこれを軍事的な視点でみると、やる気スイッチに長けた国の方が鉄砲、大砲、爆弾・・・と、相手国を威嚇する武器の技術を進歩させてしまうという側面があり、いち早く資本主義が到来したヨーロッパ各国が世界中を植民地にしてしまったという黒歴史が想起される。


資本主義がもたらす負の側面-核兵器の脅威や格差社会、地球温暖化等-を目の前にしても、では私たちの住む国が「資本主義、卒業します」と宣言出来ないのは、ポスト資本主義社会として提案される種々の提案があまりに性善説、お花畑思想に思えるからではないだろうか。現実的な視点でみれば資本主義に変わるインセンティブが組み込まれていないポスト資本主義では、他国からの軍事的威嚇に対抗する武器も持てず、独立国として存続できなくなるだろうことが容易に想像されるのである。



経世済民を目指して

「世の中を治め、民衆を苦しみから救済する」 渋沢哲学には一貫した経世済民への思いがあり、その象徴ともいえるのが著書「論語と算盤」というタイトルともいえるだろう。商売をするものにあって論語を読み道徳哲学に触れ、決してソロバン勘定だけでするなかれ、という彼の思想を鑑みると、彼の死後90年となる現代はどのように映るのだろう。世界中の経済人に渋沢哲学が浸透していれば公害問題のような過去の黒歴史や、只今直面している地球温暖化問題などは起きていなかったはずである。

私自身も営利企業の中にあって、あるいは企業団体の活動の中にあって、自社の商品を売るためにはどんな手段もいとわないといった思考回路の人に度々出くわすのだが、一体これはどうしたことなのかと戸惑いを隠せない。よく言えば彼らには社会道徳とはまた違った自己犠牲、滅私の美学があり、自身の自由な時間よりも会社の売上貢献を優先するその姿勢は、営利企業にとっては確かに好都合なところもある。実際のところ、こうした考え方に奔走する人たちは営利企業の中にあって優遇され、重要なポストを獲得している節もある。自分が経営者の立場に立って見ればこれは当然の帰結にも思えてくる。


一方で、資本主義のこうした負の側面に私たちは気づきだしている。仮に儲け話につながらなくても社会公衆衛生のための活動にも力をそそぐ会社は、ESG(Environment<環境>、Social<社会>、Governance<統治>)経営と呼称され、ESG投資家から賞賛されたりもする。しかしながら、そもそもボランティア団体でもない営利企業にあって果たしてお金の獲得につながらない活動にどれだけの経営者が本気を出せるのかといえば、競争社会の厳しさを身にしみて理解している私たちにははなはだ疑わしく、むしろ「お金儲けが上手」でなければこうした思考での経営は困難ではないかとすら思える。要するに「お金に困っていない人(企業)でしか、経世済民は目指せない」、そこに資本主義の悲しさがある。


渋沢栄一に近づく?!

渋沢栄一を取り上げた大河ドラマ「晴天を衝け」は終焉を迎えたところだが、これで渋沢ブームが終わるわけではなく、2024年に今度は彼が1万円札として登場する。聞くところによればその昔にもお札に登場する予定であったらしいのだが、ニセ札防止の観点から渋沢ではなく髭を蓄えた伊藤博文が優先されたとのことである。こうした事情はさておき、この機に渋沢の翁がお札として登場することを「論語と算盤」の精神に近づける良い機会と前向きにとらえたい。一万円札をたくさん集め、自身と国を豊かにすることは大切な経済活動ではあるが、猪突猛進にそればかりをインセンティブとした先には経世済民の実現は有り得ないのだ。


さて、土佐料理のランチ会に続いて今度は忘年会のお誘いを頂いた。どうやらここ日本では少しばかりコロナに対して克服のゴールが見えてきたということなのだろうか。あるいは第6波までのつかの間の休息だろうか。向かった先は帝国ホテル。クリスマスツリーが大きくて華やかである。因みにこのホテルの初代会長は渋沢栄一さんである。一方の私はホテルまでの道を間違えたうえに広いホテルの中で右往左往してしまい、打ち合わせの場所にたどり着くことにも一苦労であった。どうやらこのような私が渋沢論を語るというのは身分不相応も甚だしいことであったか。反省。



第16回おわり。第17回につづく

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