2022年10月03日
2020年10月20日から、3週間に1回、大手製薬企業勤務で“えきがくしゃ”の青木コトナリ氏による連載コラム「疫学と算盤(ソロバン)」がスタートしました。
日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボWEBサイトに連載し好評を博した連載コラム「医療DATAコト始め」の続編です。「疫学と算盤」、言い換えれば、「疫学」と「経済」または「医療経済」との間にどのような相関があるのか、「疫学」は「経済」や「暮らし」にどのような影響を与えうるのか。疫学は果たして役に立っているのか。“えきがくしゃ”青木コトナリ氏のユニークな視点から展開される新コラムです。
(21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)
“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム
「疫学と算盤(ソロバン)」 第25回:人の業(ごう)と科学”
ちはやふる
「ちはやふる」は映画にもなった競技カルタを題材とした漫画のタイトルだが、おそらく小倉百人一首の中の句からとったものだろう。「ちはやふる」は枕詞で、在原業平が詠んだ実際の和歌は以下の通りである。
ちはやふる神代もきかず竜田川 からくれないに水くくるとは
私はカルタのたしなみは全くないのであるが、偶然か必然か、この句については珍しく記憶している。何のことはない、単に落語の小話になっているからである。
長屋の長老がこの句の意味について問われたときに、わからないと言えばいいものを、博識で知られているプライドが邪魔をしてそうとはいえない。当てずっぽうで説明をしたというのが落語の筋書きである。うろ覚えなのだが長老の解説とは以下のようなものだ。
竜田川なる力士がおって、千早(ちはや)さんに結婚を申し込んだもののフラれ、その妹の神代さんにもまたフラれてしまう。その後、竜田川は力士を引退し豆腐屋となったのだが、そこへ千早さんが訪ねてくる。オカラをタダでくれというのだ。随分と落ちぶれたものだ。丁重に断ったところなんと千早さんは入水自殺を図ってしまった。
落語にはこのような「知ったかぶり」ネタは度々、登場する。かの立川談志は「落語とは人間の業(ごう)の肯定である」と言った。なるほど人間のその人間らしさとは案外とこの長老のような見栄であったり、怠け者、あるいは下心と、とても感心できるようなシロモノではない。しかしながら落語でそれを聞くと同じ人間という“種族”として何故だか愛しく感じられるものである。
ミルグラム実験
先回取り上げた心理学分野で有名なスタンフォード監獄実験と負けず劣らずに有名な心理学の研究がもう1つある。ミルグラム実験がそれだ。今回はこの研究を取り上げてみたい。
実験は教師役と生徒役と2人セットで、それぞれ別の部屋に分かれる。教師役は研究運営者の指示で別室の生徒役へ問題を出すのだが、生徒役がそれを間違えてしまうと15ボルトの電流を流し生徒役へ電気ショックを与えるというものである。
15ボルトという電流はどうというものではないのだが、問題を間違えてしまう回数が2回、3回と増えるにつれてショックを与える電流の大きさを少しずつ増やしていくというところがキモである。最大電流となる450ボルトまで指示通りに電気ショックを与える教師役が一体、何人いるだろうかを調べるのが本研究の目的である。
電気ショックは300ボルトを超えてくると人命に関わる危険領域に入ってくるため、研究前の仮説では誰もがその域を超えないだろうという予測であった。ところがその予想に反して実験に参加した40人のうち実に26人が最大となる450ボルトまで電流を上げていったということである。「指示に忠実に従う」義務感や圧力の大きさが想像以上にパワフルなものであることがわかったぞ、というのがこの実験で得られた成果である。
因みに、実際には26人もの死者を出したなどということはなく、誰一人、死んでもいないので安心されたい。それどころか、そもそも生徒役はいわゆるサクラであって、研究運営者とグルとなり、電流が流されるたびに「ウワーッ」だとか「やめてくれー」という小芝居をするのだが、実際にはその電気ショックを受けてさえいない。
悪の陳腐さ
心理学者ミルグラムによって実施されたこの研究には「アイヒマン実験」という別名がある。アイヒマンとは数千、数万人ともいわれるユダヤ人をガス室へ送ったということで死刑判決を受けたナチスの将校の名である。第二次大戦以降、行方知らずであった彼は逃亡先のアルゼンチンでとらえられたのだが、何より彼を有名にしたのはその裁判が中継されたからだろう。
さてさて、どれだけの悪党なのか世間が固唾(かたず)をのんで見守ったであろうことは想像に難くない。しかしながら彼の人物像はその予想に反してどこにでも居そうな、「家族思いの小心者」だったという。
多くの人命を奪ったことに何ら罪悪感を抱いていないその様子は、むしろ社会に衝撃を与えたというが、ユダヤ人の心理学者であるハンナ・アーレントをして、その様は「悪の陳腐さ」と表現された。アイヒマンは決してまれにみるような極悪非道なキャラクターでは決してなく、ごく普通のありふれた陳腐な人物像である。従順に職務を全うすることで、その帰結として何千人を死に追いやろうとも、自身はその責任や良心の呵責を全く感じない。ミルグラムが行った実験とはこの「悪」の正体を暴こうとしたとも言えるというわけだ。
無機質で人間味の感じられない仕事ぶりは私たち自身や私たちのまわりでもありふれている。職務に忠実なあまり「どれだけ従順に決められたことを正しく行うか」だけを責務として受け取り、その帰結がどのようになるのかは我関せず。手際よくこれをこなすことは確かに組織としてはありがたく、実務者として高く評価されることもあるが、そこに盲目的な従順さしかなければ私たちは簡単にアイヒマンと同じ人間になってしまう恐れがある。気を付けたいものだ。
科学者の“熱病”再び?!
ところで前述したアーレントは、ミルグラムによる研究そのものについて痛烈に批判をしている。教師役に対して指示をする人があまりに威圧的で、もはや高電流を流すしかない程に教師役を追い込むという態度を彼女は「捏造」とまで酷評しているのである。やはりこの研究にも前回とりあげたスタンフォード監獄実験のような「このような研究結果が得られるとよい」という研究者の“熱病”が内包していたのかもしれない。
統計学者フィッシャーによれば、遺伝の法則を発見したメンデルも、進化論を唱えたダーウィンも、おそらくは研究データの一部には捏造があったという。実験誤差を加味するならばあまりに数字が綺麗すぎるというのだ。それが真実であるかどうかについて、私たちはもはやコトの真偽を確かめる術は持ち合わせていないが、統計学の大家がそのように評するのであるからおいそれと聞き流すわけにもいかないだろう。
さて、医薬系分野における捏造の事案としては俗にいう“ディオバン事件”が有名である。医薬品「ディオバン」が他の治療薬より優れた成績であった旨の研究結果にはデータの改ざんがあったという。一方で、こうした研究倫理を法で規制することは難しい側面もあり、ディオバン事件が契機となった「臨床研究法」は研究者らにすこぶる評判の悪い規制である。簡単にいえば複雑な手続きや細かな書類群作成の義務が多く、一方で規制の解釈に曖昧なところがあり規則違反を犯してしまいそうな不安から研究実施をためらってしまう。いわば“あつものに懲りてなますを吹く(熱い吸い物を飲んでやけどをしたことに懲りて、冷菜である膾<なます>にまで息を吹いて冷ます)”といったところで、もっとスマートな研究倫理違反防止の打ち手は無いものだろうかと思えてくる。それでも科学は落語のように人の業(ごう)に寛容すぎるわけにはいかないので痛しかゆしでもある。
自由からの逃走
さて、有名な心理学実験であるスタンフォード監獄実験と“アイヒマン”実験を取り上げたところだが、結果としてどちらもディスることになったことには他意は無い。むしろ心理学がフロイトやユングによる“直観的学説”時代を超えて実証主義(言い換えれば科学の一分野)となったことは大きな進歩であり誠に喜ばしいことである。実際のところこれらの有名研究に触発されて同じ目的で異なるデザインの実験が各地で幾度も行われており、その心理的効果は“実証された”と言ってよいレベルで幾度も再現されている。
スタンフォード監獄実験で見られた「人は役割を与えられるとそれらしく振舞う」ことは「役割効果」として、また制服を着ることやその制服を着ている人を見て感じる心の作用は「制服効果」として、それぞれ広く知られるようになった。また、ミルグラムの仮説「人は権威に弱い」こともまた多くの研究で再現されており、そのパワーは「社会的勢力」と呼称され、私たち誰にでも多かれ少なかれそのような勢力による影響が観察されるということらしい。
この「社会的勢力」は、後の研究によってさらに細分化されたカタチで報酬勢力、強制勢力、正当勢力、専門勢力、参照勢力の5種があると整理されている。報酬勢力とは要するに「お金をもらうために」、強制勢力とは「強制力の強さ・プレッシャー」、正当勢力とは例えば「手順にきっちり従うことに正当性がある」、専門勢力とは指示する者の専門性が高いこと、参照勢力とは指示する者への好意感情や関係性のことである。ミルグラム実験であれば専門勢力(心理学の大家、ミルグラムには従うべきだという心理)に正当勢力(要請されたことに従うことは正当)が加わったものだとみなされるだろう。
アイヒマンに限らず、第二次大戦後はホロコーストに代表されるナチズムがどうして社会に発生したのか、心理学者や社会学者でなくてもその原因探求に世界中が頭を悩ませたことだろう。ドイツのフランクフルト学派は、行き過ぎた自由がかえって人々の居心地の悪さを助長してしまい、むしろ不自由になりたい、ある程度の拘束をされたいという心理がこれを後押ししたと整理しており、これを「自由からの逃走」と呼称している。
社会学の創始者の一人であるデュリュケームも、「自殺論」の中で過度に個人の自由が獲得されると自殺率が上昇してしまうことを見出し、これをアノミー的自殺として整理した(アノミー:行為を規制する社会の規範が崩壊することによって引き起こされる無秩序状態のこと)。私たちが幸せを感じるにはあまりに自由すぎては行き過ぎで、ある程度は束縛や規制があった方がよいというのは何ともメンドクサイ、業(ごう)とも言えそうだ。
知ったかぶり
皆さんがもし「心理学の実験・研究で知っているものがあれば教えて」と聞かれたならば、スタンフォード監獄実験と“アイヒマン”実験は2トップの有名なもので、とりあえずこの2つだけ知っていれば“知ったかぶり”としては十分だろう。
科学として決して許されないデータの改ざんや自分に都合のよい研究にしようと仕向ける所作は、ある意味で人間らしく人の業である。また、心理学者らが見つけ出そうとした役割効果、制服効果、社会的勢力や「自由への逃走」ならぬ「自由からの逃走」もまた科学的合理性からは導き出せないという意味で、人の業の類(たぐい)と言えるだろう。
ところで冒頭の句「ちはやふる」であるが、この句の正しい意味は「竜田川(龍田川)の一面に紅葉が浮いて真っ赤な紅色に水を絞り染めにしている様子は、その昔の、神代の時代でも聞いたことがない」というものである。周囲ぐるりと一面の人の業に囲まれ、その人間関係に疲れた私たちは時折、無性に大自然の中に身を置きたくなるものだ。日本はまもなく紅葉の季節を迎えようとしている。
第25回おわり。第26回につづく
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