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第9回:収監されるのは誰?

2024年9月20日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                     (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第9回:収監されるのは誰?


パラリンピック閉幕

オリンピックに続いてパリにて開催されていたパラリンピック、通称パリパラもこの9月8日に閉会式を迎えた。私が子供の頃はその存在すら知らなかった、言わば「障害者によるオリンピック大会」は今ではトップアスリートが出場する世界大会として広く認知されている。


陸上競技に水泳にテニス。中でも車いすバスケットボールは人気の競技である。5人のフィールドプレイヤーにおいて、より重い障害の人は1点、軽い人は4.5点と点数化されており、その合計を14点以内にしなければならないという規定がある。それ故に軽い障害の人だけでは構成出来ない。こうした工夫があって、競技をより公正なものにしている。人の尊厳や生き甲斐に資する政策としてこれほどの成功は、ひと昔前ならば想像が出来なかったことであり奇跡にも思える。そのアイデアのセンスと、運営に関わる人たちの努力には心から敬意を表したい。

さて、読者諸氏は身体に何らかの障害をお持ちだろうか。あるいはごく身近の人に障害を抱える人がいるだろうか。自身がそうではないとしても、普段の暮らしの中で障害者は決して遠い存在でもないだろう。ここ日本には障害者基本法なるものがあり、2004年の改正では以下の文言が3条3項に加えられている。


何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。


障害を語ることはタブー視されがちで気安く語れるものではない。何気ない一言が思いもかけない形で誰かを傷つけてしまいかねず、また「差別」と判断されはしないか心配で口が重たくなる(上述した「障害をお持ちだろうか」という問いかけはセーフなのか確証がない)。それ故に必要に迫られなければ普段の会話に登場することもなく、仮に登場するにしても声が漏れないように低いトーンで話したりする。


障害、そして差別。オリンピックとパラリンピックとの区別。オリンピックにあっても、トランスジェンダーの元男性が女子ボクシングで優勝したが、メダルを与えてよいかどうかといった議論があった。LGBTQ(性的少数者)の問題は障害や差別とはつながるのだろうか。男女の区別。女性として生きてきた当該アスリートの人権の問題。一方で競技としての「公正」の問題。差別と区別との違いはどこなのか。


こうしたデリケートな問題は本コラムのようなユルイところで取り上げることは避けておくのが無難だろう。社会問題として難題であり解決の糸口を探ろうとしても消化不良を起こすのが確実だ。しかしながらその一方でタブーは避けるべき、という姿勢は正しいのだろうか。疾病を主たるテーマとして取り上げている本コラムとしてやはり「障害」のテーマは避けてはいけないと思い直し取り上げることにした。もちろん、誰も傷つけたくはない。


障害者基本法

障害者について、障害者基本法の第2条には以下の記述がある。


この法律において「障害者」とは、身体障害、知的障害又は精神障害(以下「障害」と総称する。)があるため、継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者をいう。


「しょうがい」の記載そのものについてもハードルがある。インターネットで検索してみたところ、どうやら「障害」と表記する派が40%、「障碍」派もまた40%、「障がい」または「しょうがい」派が10%とのことであった*。今回は法律の表現に則って「障害」と表記させて頂くことにするが、その記載に感情を害する人もいるかもしれず、ご容赦願いたい。数年後には“社会通念”(後述)が変容し、「障害」と記載した本コラムが批判されることになるかもしれない。


加えて言うならばたとえ法律文書であったにせよ、「身体障害」と「知的障害又は精神障害」を混ぜるなんてとんでもない、と感じる人もいるかもしれない。一方を背負う人や親族はもう一方と同一視されることに傷つく可能性もあるだろう。これは事情のまるで異なる様々な性的少数派の人たちを総称したLGBTQという概念にも似ているかもしれないのだが、そのような例え話を補足することで傷つく人がいるかもしれない。タブー視されているテーマを取り上げるというのはこういうことであり、なかなか話が先に進まない。


エピステーメー(社会通念)

後の世の社会通念が、以前の社会通念を糾弾するというのはよくある話でもあり、物書きのはしくれとしてはそのようなことを気にしていては仕事にならない。明治維新によってそれまでの武士中心社会の社会通念は根底からくつがえされたし、以降に生じた軍国主義、「国のためには命を惜しまない」などという教育は今では決して許される考え方ではない。ならば現代の社会通念も、いずれの未来では全くの非常識ということにもなるだろう。


「知の考古学」という書籍を出版し、自らを知(エピステーメー)の考古学者とした哲学者、ミシェル・フーコーはこうした社会通念が連続的ではなく、時代を分断するようにして変容することを見出した。氏の思想のベースとなるエピステーメーという概念は「知」とも訳されるが、むしろ「社会通念」とした方がニュアンスとして通りやすいだろう。以降は社会通念(エピステーメー)と記載することにしよう。

この概念は障害やLGBTQ、あるいは差別を理解するうえで役に立ちそうだ。フーコーは数多くの書籍を世に出しているが、「精神疾患とパーソナリティ」(1954)、「精神疾患と心理学」(1962)、「臨床医学の誕生」(1963)といった、現代において医学分野に属されるタイトルも多い。


一方で、「狂気の歴史」(1961)、「監獄の誕生」(1975)といった書籍の方がおよそ現代にあっては有名であり、むしろこちらのテーマの方が少々キワモノ色のあるフーコーらしくもある(フーコーが存命なら傷つけたかもしれない)。こうした書籍タイトルは印象として医学分野のそれとは全く別の研究テーマに思えるかもしれないのだが、実はこの「狂気」「監獄」というセンセーショナルなワードもまた、「精神疾患」「臨床医学」といったテーマとは根底のところで密接につながっているようなのである。どういうことか、彼の思想を少し掘り下げてみよう。


正常と異常の切り分け

フーコーの書籍の多くは日本語訳も出版されているので詳しいところを知りたい人はそちらを是非、お読みいただけたらと思う。以降は「フーコーの思想の紹介」というのはおこがましく、私というフィルターを通して理解されたところの、氏の思想と断っておきたい。さて。


フーコーは社会通念(エピステーメー)と照らし合わせることで、人々は正常と異常を区別しているとした。つまり正常と異常という概念は決して普遍的なものではなく、その定義すらおぼつかないのである。武士社会、明治維新、軍国主義、戦後日本といったような時代を分断する社会通念(エピステーメー)の変容によって、それまでの正常とされていたものが異常に、異常とされていたものが正常になる、ということが歴史上、繰り返されるのである。


確かに「切り捨て御免」や「お国のためには命を惜しまない」などとされるのはまっぴらごめんだ。同じように「しょうがい」を「障害」と表記するのがいずれは少数派、マイノリティとなってしまうことだって当然あるというわけだ。


フーコーの論説はその「異常」を「狂気」と表現したりもする。その中には犯罪や貧困、同性愛、精神障害も加わる。現代では「監獄」といえばおよそ刑務所のことしか指さないのが社会通念(エピステーメー)であるが、「知の考古学」を探っていくとどうやらこうした人たちを全て隔離する政策がとられ、その隔離先というのがフーコーの言うところの監獄ということである。現代的な刑務所そのものではない。ハンセン病患者に対してとられた隔離政策について、只今は裁判が進行中であるが、サナトリウムと呼称されるような施設もまたフーコーに言わせれば「監獄」の一形態ということになる。


フーコーの思想と「疫学と算盤」

より慎重にこれを見ていくと、本コラムでしばしば取り上げてきたところの病気の定義の話と類似性があることに気づくことだろう。「精神障害」や「知的障害」はその時代の社会通念(エピステーメー)が定義したものとなる。普遍性は無く、その当時は病気であっても、現代では病気ではないとされるものや、その逆もあり得るというわけだ。


実際のところ、現代科学において「知的障害」に該当する人は、ルネサンス期の社会通念(エピステーメー)の下では分け隔てなく自由を謳歌できていたという。キリスト教の思想が広がるヨーロッパにあってこうした人は「神の知恵に近づき過ぎた人」ととらえられていたり、古代ギリシャにあってもプラトンは「狂気とは、神がかりのような存在」としていたりで、今のように病気とはみなされていなかったのである。


また、これまでの歴史では同性愛者は「狂気」とみなされ、社会通念(エピステーメー)の外側にあって、犯罪とされたり病気とされたりもしている。性同一性障害をWHOが精神障害の分類から除外したのは2019年、つい最近のことである。LGBTQが社会的に認知され許容されてきたのはつい最近のことでもあり、一方で未だこれを犯罪としている国もある。


一方、正常と異常の区分けをするうえで、経済学的視点が加わっていることもみてとれる。貧困者や浮浪者は少なくとも現代の社会通念(エピステーメー)では病気ではないし犯罪でもない。しかしながら、当時のヨーロッパでは資本主義社会の到来によって、経済活動としての異常、厄介者として“監獄”に隔離されるという政策がとられたことがあるのだという。因みに「浪費によってお金がなくなった人」もまた、こうした人たちと一緒に隔離されたそうで、これは現代の社会通念(エピステーメー)では病気の類、つまり「ギャンブル依存症」のニュアンスも感じられる。言うなれば、病気や経済が監獄行きのモノサシでもあった。


社会通念作成装置としての教育(ディシプリン)

社会通念(エピステーメー)が学校教育で形成される様は洋の東西を問わず共通のことだろう。「欲しがりません、勝つまでは」は戦時中の日本の教育のアタリマエ(エピステーメー)だったのであり、怪しげな新興宗教などもまた、教育、訓練、あるいは幼少期におけるしつけによってその社会通念(エピステーメー)が植え付けられる。フーコーはこの“装置”をディシプリン(しつけ・訓練・教育)と表現した。そこで形成された常識(エピステーメー)を守れているならばそれは「正常」、守れなければ「異常」「狂気」として“監獄”に送られる。何だかんだと隔離対象者が増大し、ヨーロッパでは100人に1人が“監獄”行きの隔離政策がとられた時代もあったという。恐ろしい話だ。


また、さらにその昔は学校という社会システムが無かったのであり、ディシプリン(しつけ・訓練・教育)はもっぱら恐怖政治とでも言おうか、暴力によって直接それがもたらされていた。氏の書籍にはその社会通念(エピステーメー)の違反者が残虐な公開処刑をされる様子の詳細な記載もある。統治者にとっての厄介者はアウトロー(犯罪者)、働けない人(障害者)、お金を生まない人(貧困者、浮浪者)と、その区別をキッチリとするでもなく、このようであってはならぬと、”見せしめ“というディシプリン政策がとられていたりもしたのである。


ディシプリンは統治者や国に都合のよい装置である。軍事力の視点では国に忠誠を誓い、健康で長生きな人間の数が多いことは重要であり、エピステーメーを国民に浸透させるうえでディシプリンは欠かせない装置である。そしてまた、エピステーメーが浸透した私たちもまた無自覚にその協力者となる。社会通念(エピステーメー)の違反者に対しては、実際の刑罰とは別に厳しく批判を浴びせるといった行動をとるわけだ。パンデミック下においてマスクをしない人や不要不急の外出をする人を私たちは白い目で監視し、これに度が過ぎると誰に頼まれることなく自ら進んで「自主警察」ともなるのである。


さらには他人を監視するだけに飽き足らず、社会通念(エピステーメー)に自身が反する行為をしてしまったときにもまた大いにそれを恥じる。人と違うのは恥ずかしい。遅刻、借金、食事のマナーや身だしなみ・・・。自らそこに罪悪感や羞恥心が自動的に芽生えるようになればディシプリンは成功したといえよう。もはや恐怖政治という打ち手は必要が無くなる、というわけだ。


目に見えない監獄

社会通念(エピステーメー)に違反した自分を恥じる。ここにフーコーは現代版の監獄をみてとるのである。パノプティコン、という想像上の刑務所のことをご存知だろうか。一望監視システムとも訳されるこの”装置“、元々は哲学者ベンサムが想起したものだったのだが、今ではおよそフーコーの”代名詞“ともいえる。氏の書籍には以下の記述がある。


周囲に環状の建物、中心に塔。この塔には、円環の内側へと開かれた広い窓が開けられている。周囲の建物は独房に仕切られ、(中略)その際必要なのは、中心の塔に監視者を配置し、各独房に狂人、病人、罪人、労働者、学生を閉じ込めることだけである。(中略)周囲の独房の中にいる囚人の小さな影を塔から観察することができるのだ。独房はそれぞれのための檻、一人ひとりの小劇場のようである。                                 

「監獄の誕生」より*


本来、自由なハズなのにどうにも息苦しいのは何故だろう、そんなことを思うことは無いだろうか。私たちはパノプティコンという独房の中で生まれ育ち、実際には監視室に人がいるかどうかは見えずとも、社会通念(エピステーメー)を守ることに必死だ。それに逸脱する人を糾弾したり差別したりもする。このときの私たちの立ち位置は中心の塔だろうか。私たちは私たちを監視し、また監視されてもいるのである。


タブーの蓋を開けてしまった

フーコー自身は医療者でも経済学者でもないのだが、「疫学と算盤」の視点では2つの気付きがありそうだ。1つには「障害とは普遍的なものではなく、社会通念(エピステーメー)から外れたもの」、という“病気の定義”に関わる視点である。もう1つは「経済活動をしない人、失敗した人」を“資本主義社会における厄介者”とする視点だ。前者の視点はともかくとして、後者の視点は最近叫ばれるところの資本主義の限界、負の側面を示してもいる。


差別は悪いことだ。重い精神障害のある人が暴れるからといって寝具に縛り付けるのは間違っている。人類平等、分け隔てなく誰とでも接しよう・・・。言うは易しだ。


重度の知的障害を患った人たちが暮らす施設は決まって人里離れたところだという。そもそも刑務所(本物の監獄)は、犯罪者の更生施設として適切な打ち手なのか疑問の声もある。かくいう私たちが暮らしている場所もまたパノプティコンなる監獄らしい。


今回取り上げたテーマは、本コラムでその解決策まで検討できるような易しい課題とはとても思えない。ただいまの私にせめて出来ることは「問題があること」、そのタブーをせめて晒(さら)すことで、皆々がこうした問題に対して視線を逸らすことをしないように仕向けることくらいだ。


タブー視される社会問題について蓋をしてしまったならば、その解決は永遠に進まないことだろう。蓋をしないこと、その箱の底の方にわずかな「希望」があると信じたい。


*「障害」の表記に関する検討結果について

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_26/pdf/s2.pdf

*日本語訳は「フーコーをどう読むか」(ヨハンナ・オクサラ著、関修訳、新泉社)より



「続・疫学と算盤(ソロバン)」第9回おわり。第10回につづく





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