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第34回:偶然性の定量

3 時間前
読了時間: 19分

2026年11月04日

2020年10月20日から連載開始した「疫学と算盤(そろばん)」は、昨年末、通算第36回を数え無事終了しました。36回分のコラムはご承知かと思いますが、当WEBサイトにてダウンロードできる電子書籍となっています。2024年1月からは、コラム続編の「続・疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。筆者・青木コトナリ氏のコラムとしては、日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボのWEBサイト連載の「医療DATA事始め」から数えて3代目となる新シリーズの開始です。装いを変え、しかし信条と信念はそのままに、“えきがくしゃ”青木コトナリ氏の新境地をお楽しみください。 

                 (21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)


“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏の 

「続・疫学と算盤(ソロバン)」(新シリーズ) 第34回:偶然性の定量


偶然の鑑賞

ちいかわの人気がすごい。映画版も興行収入が200億円に届きそうで、配給開始から3か月も経ったのに今も上映している。一方で私が興味を持つような映画は、どうもそういった盛り上がりとは無縁なことが多く、上映されている期間も大抵短い。観に行こうと思っていても気付いたときには既に上映が終了していたりする。


先日もそのうち観に行こうと思っていた映画を上映している映画館を調べたら、既にほとんどなく、早朝に1回だけ上映しているところへはるばる出かけたのであるが、チケット購入機で席を予約しようとしたら何と「満席」とある。ちいかわ映画でもあるまいし、まさかそんなことがあるのかと現実を受け入れるのに少し時間が必要であった。私と同じようなマニアックな人も結構いるものだな、と自分を納得させつつ、折角早朝に出かけてきたのにそのまま帰宅するのも何だか癪(しゃく)である。そこで急きょ代わりに鑑賞したのが映画「急に具合が悪くなる」である。私自身、急に具合が悪くなって救急車で運ばれたことが幾度かあったのでタイトルに魅かれたというのか、選んだ理由を言えば取るに足らない。



逆にいえばタイトル以外にほとんど情報がなく出演者もわからない。上映時間が196分というのも購入したチケットをみて知ったくらいである。3時間は長すぎないか、もしつまらなかったら途中退席しようと思いながら、始まった映画はタイトル表示もなく30分ほどずっとフランス語で展開される。あれ、フランス映画だったかなと本気で勘違いしそうになったくらいだが、これは濱口竜介さんが脚本・監督をされたれっきとした日本映画である。


ところがこの映画、すごく面白い。ゴジラのようなハプニングもどんでん返しも何もないので万人受けするとも思えないのだが、個人的には正直、“ハマった”と言ってよい。鑑賞後には書籍「急に具合が悪くなる」(晶文社)の他、映画で取り上げられた認知症ケア「ユマニチュード」関連の書籍など、色々と取り寄せたりインターネットで調べたりと、やっていることは「ちいかわ」推しのファンと一緒である。


そして九鬼周造(くき・しゅうぞう)である。彼は和辻哲郎や三木清と並んで日本の近代哲学をリードした人なのだが、この映画との出会いを通して私は九鬼哲学に出会うことになる。その彼の研究・書籍として有名なのが「偶然性の問題」である。思えば疫学が取り扱うところもまた医療における不確実性の定量であり、これは偶然性の問題と言えなくもない。そこで今回は九鬼哲学と疫学との接点について考察してみたい。


濱口脚本

唐突に九鬼周造と言われても意味不明に違いないので、映画「急に具合が悪くなる」について、もう少しお伝えした方がいいだろう。原作となった書籍からその映画化に興味を持った人が鑑賞していたとしたら、これはちょっと受け入れがたい可能性がある。何故ならば原作とはまるで別物だからである。書籍の方は日本の哲学者、宮野真生子氏と人類学者、磯野真穂氏との往復書簡、つまり手紙のやり取りであるのに対して、映画の舞台はフランスであり、パリ郊外の高齢者介護施設の施設長が主人公である。


さらにはもう一方の主人公、日本人の舞台演出家が前述の施設長に対して資本主義の構造分析を話すシーンがあるのだが、原作の方では資本主義の話は一切出てこない。アニメを原作としたお芝居や映画における原作ファンのいう「イメージと違う」という感想はよくあるが、そういうことではなく全く別の作品なのであって、むしろ同名タイトルとしたことが不思議である。渋沢栄一さんの「論語と算盤」と本コラム「疫学と算盤」ほどに、まるで違うのである。


しかしながら私はその濱口脚本に魅了されてしまった。因みにこの映画は2026年のカンヌ国際映画祭にパルム・ドール候補としてノミネートされそこで上映されている。パルム・ドールは惜しくも逃したものの、主役の二人がそろって女優賞を受賞するという快挙を成し遂げている。


さて、ここまで読まれた方は「九鬼周造はどこに出てくるの?」と思われたに違いない。実は濱口脚本、つまり映画版で九鬼は登場しない。原著となる往復書簡の執筆者である哲学者、宮野氏がその九鬼周造の研究者であった、ということである。ただ、私自身は映画を見ていなければ書籍「急に具合が悪くなる」は読んでいないだろうし、九鬼周造に興味関心をもつことは無かったことだろう。映画とは別物ではあるのだが、九鬼による「偶然性の問題」が、末期がんと診断された宮野氏の、自らの「若くして、たまたま癌になった」偶然をどう評価するのか、まさに病と闘いながら残された往復書簡もまた、映画とは別に私の心を打つのである。


九鬼周造

前フリが長すぎて恐縮なのだが、九鬼周造についても少し補足をしなければ話が進まないだろう。彼が他の日本人哲学者と違うところとして、その思想ではなく環境の方に目を向ければ、「外国で長い間、暮らしていた日本の哲学者」であることはそのアイデンティティに深く関わるところでもある。


九鬼は現象学で有名なフッサールのもとで学び、フッサール宅で開かれた集まりにハイデガーらと同席したという記録もある。何より、九鬼のフランス語の家庭教師が後に哲学者として世界的に名をはせる、若き日のサルトルである。サルトルが家庭教師。人生の中でそんな”偶然”があるのだろうか。とにかく、こうした環境ゆえに他の日本人哲学者にはみられない、「日本文化を西洋哲学の言葉で捉え直した哲学者」としても知られているのである。


九鬼の著書「『いき』の構造」は日本文化の粋(いき)という美意識を、西洋哲学の方法を用いて分析したものである。また彼は詩人でもあって、留学中にはプリンツ・クキとあだ名されたていたという逸話からして、ザックリいえば“洒落男”であったのだろう。


ここからが本題となる。九鬼は偶然を定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然の3つにわけて論じている。少し言葉が前近代的なので、とっつきにくいかもしれない。言葉の意味するところを補足しながら疫学と九鬼哲学の類似性と相違性について以降で考察してみたい。


定言的偶然と疫学

定言的偶然を説明する前にその反意語となる定言的必然について紹介した方がいいだろう。定言的、と表現しているのは「定義」のニュアンスにより近く、ある種の法則性であるとか一般原則といったものが定言的必然ということになる。例えば「クローバーは三つ葉である」が定言的必然であり、四つ葉のクローバーの存在は例外的な存在として定言的に偶然、とするのである。四つ葉のクローバーは1万分の1の出現確率であり、確かにこれを見つけられれば、それは“偶然”という表現がしっくりくるだろう。


さて、この定言的偶然にはツッコミどころがある。何故に四つ葉のクローバーが存在しているのかを機序的に考察してみると、日照や強風の影響であったり、あるいは若い芽のときに人やペットに踏まれたせいであったりと、個別にみればいわば「必然」ともいえる。


これは医療の世界にも通じるところがあるだろう。mRNAワクチンによる心筋炎の発症は1万分の1未満であり、万が一その副反応が発生したならばそれは偶然の出来事である、と私たちは受け止めることになる。そのうえで疫学とは「mRNAワクチンによる心筋炎の発生リスクは0.01%」という、発生リスクの定量化を行うという学問領域である。


九鬼哲学で言い換えるならば、「mRNAワクチンで心筋炎はおきない」という定言的必然から始め、観察研究によってその例外の発生を定量化しているということになる。また、定量化することで定言自体が「mRNAワクチンで心筋炎は0.01%起きる」に差し替えられ、加えて若い男性においてそのリスクが高いといった情報が付加されることで、以降に発生する心筋炎は「必然」とはされないものの、そのリスクを承知のうえで投与されるのであれば純然たる「偶然」とも言えなくなる。何故ならば、例えば胃腸障害の副作用発生確率80%の医薬品が処方されたとして、そこで発生する副作用と心筋炎の副反応は単に発生確率の違いでしかないからであり、それは偶然/必然の文脈では一般的に語られることがなくなるからである。


九鬼の生きていた時代にこうした疫学情報がたやすく手に入ったりはしていないに違いないのだが、それでも機序の視点からみれば四つ葉のクローバーの発生は必然ともいえることから、九鬼自身も定言的偶然というのは、純粋な偶然とはいえないとしている。


仮説的偶然と疫学

定言的偶然が完全でないとなった場合、次なる「偶然」性のチャレンジャー(?)は「どうして私だけに重い副作用が起きたの?」という、「どうして私が」という視点にうつることになる。事象として発現する確率が珍しいかどうかではなく、何故に自分が選ばれたのか。命や障害に関わることが自身や自身により近しい人に発生した際には「どうして私が?」「どうして私の愛する人が?」と受け止めるという感情は、いわば当たり前のこと(=必然)かもしれない。


九鬼のいうところの仮説的偶然とは、現代風にいえば“出会い系”の偶然とでも言おうか。買い物に行ったら学生時代の友人に出くわしたとか、散歩していたら1万円を拾ったとか、そこには友人と私、1万円と私、前述した副作用の話ならば副作用と私との「出会い」があり、それを私たちは「偶然」と感じるのである。より定義的に表現するならば、原因と結果、あるいは目的と手段との因果関係が崩れることによって生じる「経験的な偶然」が仮説的偶然である。


「たまたまの出会い」がその本質ではあるのだが、例えば偶然に道でばったり友人に会ったとしても、私は私の事情としてその時間にその場所を歩くことには合理的な理由があり、他方、友人の方にもそのような理由があることであろうことから、確率論はともかくとしてその出会いは「必然」という見方も出来る、というのが九鬼の考察である。実際のところ、このような偶然の出会いによって結婚した、というようなカップルもいるだろうし、当事者にとってそれは運命という名の、必然の出会いにも感じられよう。定言的偶然と同様、仮説的偶然もまた純然たる偶然とは言えないところがあるというわけである。


離接的偶然と疫学

ここまでみてきたように、定言的偶然も仮説的偶然も視点を変えると必然にもみえるのであって、その意味では完全な偶然とは言えない。そのうえで九鬼が提示する偶然性の“ラスボス”が離接的偶然である。「離接的」という言葉は受け止めにくいのであるが、原始的偶然、究極的な偶然と読み替えてもいい。


仮説的偶然でみたところの“出会い系”について、読者諸氏が結婚されているかどうかはともかく、少なくとも自身の両親が出会わなければ、自身はこの世の中に存在していないことは間違いないだろう。そしてまた両親にも自分を産んでくれた両親がおり、そのまた両親にも親がいる。ただ、それぞれの出会いはもともと同級生であったとか、趣味が同じでサークルで出会ったといったような、必然とは言わないまでも何らかの出会いの事由のようなものはある筈で、つまりは離接的偶然(究極的な偶然)とは言えないところがある。


では離接的偶然とは何か。九鬼はこれを「AではなくBでもよかったハズ」とか「無いことのできるもの」としている。他方、その反意語となる離接的必然についても触れており、こちらは「ありえたであろうことの全体」としており、これを「形而上的絶対者」とも表現している。


疫学分野にあっては「ありえたであろうことの全体」について、例えば治療選択肢にはAとBの他にCがあり、それ以外は有り得ない、などという前提から研究をデザインするのが常である。その意味で「形而上的絶対者」とは表現しないものの、選択肢の全体が何で構成されているのか、そのうえで治療Aを選んだならば治療Bや治療Cの選択肢は反事実となる。「形而上的絶対者」なる捉え方を知ったときに、「これ、疫学だな」と思えたのである。


ただし、医療現場における医師の判断は無作為ではない。目の前の患者にとって最適な治療選択肢としてAを選んだということになればそれはむしろ必然というニュアンスに近く、「治療Aではなく治療Bでもよかった」とは言えないため離接的偶然には該当しない。一方で治療の選択が無作為で行われるところの臨床試験にあっては離接的偶然という概念がしっくりくるだろう。離接的偶然は無作為化臨床試験の発想と極めて近しいのである。


偶然の重なり合い

九鬼が何故に偶然性の問題を研究テーマとしたかといえば、それは人間社会を解きほぐすことが動機であったようである。定言的必然/定言的偶然にあっては、既成の一般概念を相対化しそれに懐疑の目を向けより説得的な一般概念を絶えず生成していかなければならないとしている。これは現代風に言えば「進化」とか「アップデイト」であろうか。人間とは何か、よりよい生き方とは何か、ということにつながるものである。科学分野における帰納法や反証可能性の論考とよく似ている気もする。


また、仮説的偶然、離接的偶然への考察の行きつく先として彼は、「偶然を越えた何らかの必然的なものを感じとったとき」のことを「運命」とし、それ故に運命とは「必然-偶然者」であるとした。そしてその運命を愛せよというのが九鬼哲学からのメッセージである。他方、疫学を生業としている私にとってこれは素直に共感できないところもある。仮に1万分の1の確率であったとして、それが医薬品やワクチンによる突然死のようなものであったならば、当事者に生じる運命というのはあまりにも理不尽で残酷なことである。九鬼哲学への異論・反論は職業や立場の違いということかもしれないのだが、むしろ私が九鬼哲学の何たるか、その深淵の理解には至っていないだけなような気もする。



九鬼の著書「『いき』の構造」は日本文化の粋(いき)という美意識を、西洋哲学の方法を用いて分析したものである。また彼は詩人でもあって、留学中にはプリンツ・クキとあだ名されたていたという逸話からして、ザックリいえば“洒落男”であったのだろう。


ここからが本題となる。九鬼は偶然を定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然の3つにわけて論じている。少し言葉が前近代的なので、とっつきにくいかもしれない。言葉の意味するところを補足しながら疫学と九鬼哲学の類似性と相違性について以降で考察してみたい。


定言的偶然と疫学

定言的偶然を説明する前にその反意語となる定言的必然について紹介した方がいいだろう。定言的、と表現しているのは「定義」のニュアンスにより近く、ある種の法則性であるとか一般原則といったものが定言的必然ということになる。例えば「クローバーは三つ葉である」が定言的必然であり、四つ葉のクローバーの存在は例外的な存在として定言的に偶然、とするのである。四つ葉のクローバーは1万分の1の出現確率であり、確かにこれを見つけられれば、それは“偶然”という表現がしっくりくるだろう。


さて、この定言的偶然にはツッコミどころがある。何故に四つ葉のクローバーが存在しているのかを機序的に考察してみると、日照や強風の影響であったり、あるいは若い芽のときに人やペットに踏まれたせいであったりと、個別にみればいわば「必然」ともいえる。


これは医療の世界にも通じるところがあるだろう。mRNAワクチンによる心筋炎の発症は1万分の1未満であり、万が一その副反応が発生したならばそれは偶然の出来事である、と私たちは受け止めることになる。そのうえで疫学とは「mRNAワクチンによる心筋炎の発生リスクは0.01%」という、発生リスクの定量化を行うという学問領域である。


九鬼哲学で言い換えるならば、「mRNAワクチンで心筋炎はおきない」という定言的必然から始め、観察研究によってその例外の発生を定量化しているということになる。また、定量化することで定言自体が「mRNAワクチンで心筋炎は0.01%起きる」に差し替えられ、加えて若い男性においてそのリスクが高いといった情報が付加されることで、以降に発生する心筋炎は「必然」とはされないものの、そのリスクを承知のうえで投与されるのであれば純然たる「偶然」とも言えなくなる。何故ならば、例えば胃腸障害の副作用発生確率80%の医薬品が処方されたとして、そこで発生する副作用と心筋炎の副反応は単に発生確率の違いでしかないからであり、それは偶然/必然の文脈では一般的に語られることがなくなるからである。


九鬼の生きていた時代にこうした疫学情報がたやすく手に入ったりはしていないに違いないのだが、それでも機序の視点からみれば四つ葉のクローバーの発生は必然ともいえることから、九鬼自身も定言的偶然というのは、純粋な偶然とはいえないとしている。


仮説的偶然と疫学

定言的偶然が完全でないとなった場合、次なる「偶然」性のチャレンジャー(?)は「どうして私だけに重い副作用が起きたの?」という、「どうして私が」という視点にうつることになる。事象として発現する確率が珍しいかどうかではなく、何故に自分が選ばれたのか。命や障害に関わることが自身や自身により近しい人に発生した際には「どうして私が?」「どうして私の愛する人が?」と受け止めるという感情は、いわば当たり前のこと(=必然)かもしれない。


九鬼のいうところの仮説的偶然とは、現代風にいえば“出会い系”の偶然とでも言おうか。買い物に行ったら学生時代の友人に出くわしたとか、散歩していたら1万円を拾ったとか、そこには友人と私、1万円と私、前述した副作用の話ならば副作用と私との「出会い」があり、それを私たちは「偶然」と感じるのである。より定義的に表現するならば、原因と結果、あるいは目的と手段との因果関係が崩れることによって生じる「経験的な偶然」が仮説的偶然である。


「たまたまの出会い」がその本質ではあるのだが、例えば偶然に道でばったり友人に会ったとしても、私は私の事情としてその時間にその場所を歩くことには合理的な理由があり、他方、友人の方にもそのような理由があることであろうことから、確率論はともかくとしてその出会いは「必然」という見方も出来る、というのが九鬼の考察である。実際のところ、このような偶然の出会いによって結婚した、というようなカップルもいるだろうし、当事者にとってそれは運命という名の、必然の出会いにも感じられよう。定言的偶然と同様、仮説的偶然もまた純然たる偶然とは言えないところがあるというわけである。


離接的偶然と疫学

ここまでみてきたように、定言的偶然も仮説的偶然も視点を変えると必然にもみえるのであって、その意味では完全な偶然とは言えない。そのうえで九鬼が提示する偶然性の“ラスボス”が離接的偶然である。「離接的」という言葉は受け止めにくいのであるが、原始的偶然、究極的な偶然と読み替えてもいい。


仮説的偶然でみたところの“出会い系”について、読者諸氏が結婚されているかどうかはともかく、少なくとも自身の両親が出会わなければ、自身はこの世の中に存在していないことは間違いないだろう。そしてまた両親にも自分を産んでくれた両親がおり、そのまた両親にも親がいる。ただ、それぞれの出会いはもともと同級生であったとか、趣味が同じでサークルで出会ったといったような、必然とは言わないまでも何らかの出会いの事由のようなものはある筈で、つまりは離接的偶然(究極的な偶然)とは言えないところがある。


では離接的偶然とは何か。九鬼はこれを「AではなくBでもよかったハズ」とか「無いことのできるもの」としている。他方、その反意語となる離接的必然についても触れており、こちらは「ありえたであろうことの全体」としており、これを「形而上的絶対者」とも表現している。


疫学分野にあっては「ありえたであろうことの全体」について、例えば治療選択肢にはAとBの他にCがあり、それ以外は有り得ない、などという前提から研究をデザインするのが常である。その意味で「形而上的絶対者」とは表現しないものの、選択肢の全体が何で構成されているのか、そのうえで治療Aを選んだならば治療Bや治療Cの選択肢は反事実となる。「形而上的絶対者」なる捉え方を知ったときに、「これ、疫学だな」と思えたのである。


ただし、医療現場における医師の判断は無作為ではない。目の前の患者にとって最適な治療選択肢としてAを選んだということになればそれはむしろ必然というニュアンスに近く、「治療Aではなく治療Bでもよかった」とは言えないため離接的偶然には該当しない。一方で治療の選択が無作為で行われるところの臨床試験にあっては離接的偶然という概念がしっくりくるだろう。離接的偶然は無作為化臨床試験の発想と極めて近しいのである。


偶然の重なり合い

九鬼が何故に偶然性の問題を研究テーマとしたかといえば、それは人間社会を解きほぐすことが動機であったようである。定言的必然/定言的偶然にあっては、既成の一般概念を相対化しそれに懐疑の目を向けより説得的な一般概念を絶えず生成していかなければならないとしている。これは現代風に言えば「進化」とか「アップデイト」であろうか。人間とは何か、よりよい生き方とは何か、ということにつながるものである。科学分野における帰納法や反証可能性の論考とよく似ている気もする。


また、仮説的偶然、離接的偶然への考察の行きつく先として彼は、「偶然を越えた何らかの必然的なものを感じとったとき」のことを「運命」とし、それ故に運命とは「必然-偶然者」であるとした。そしてその運命を愛せよというのが九鬼哲学からのメッセージである。他方、疫学を生業としている私にとってこれは素直に共感できないところもある。仮に1万分の1の確率であったとして、それが医薬品やワクチンによる突然死のようなものであったならば、当事者に生じる運命というのはあまりにも理不尽で残酷なことである。九鬼哲学への異論・反論は職業や立場の違いということかもしれないのだが、むしろ私が九鬼哲学の何たるか、その深淵の理解には至っていないだけなような気もする。



観ようと思っていた映画が満席であったという偶然、同じ時間帯に「急に具合が悪くなる」が上映されていたという偶然、そこからさらに書籍「急に具合が悪くなる」を購入し九鬼周造に興味を持ったという偶然。そして九鬼の主研究が「偶然性の問題」であったこと、私がこれまで生業(なりわい)としてきたところの疫学が、「胃腸炎の副作用が発現する確率は30%」といったような、不確からしさの定量化をしていたこと。それが九鬼哲学でみたとき、偶然と必然の線引きを解きほぐすかのような仕事に思えたといったような気付きのそれぞれは全て偶然の重なりである。


然るに、「偶然性の問題」をとりあげた今回はいくつもの偶然が重なりあった、確率論では論じることの出来ない“奇跡”の作品である。もちろん、出来栄えについては別の話であるのだが。


「続・疫学と算盤(ソロバン)」第34回おわり。第35回につづく




 
 
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