2020年12月6日


“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム
「疫学と算盤(ソロバン)」 第3回:ワクチン接種の科学

引越しをして10ヶ月になる。埼玉県から東京都内に引っ越してきたのは勤務先が変わったからではなく、主には子供の進学が動機である。大学へ無事に進学が決まったのは良いが、キャンパスのある神奈川県に埼玉から通うには時間が掛かるうえ、通学するのに毎日通勤ラッシュに巻き込まれる子供も不憫であろうという親心といえるかもしれない。
引越の決断には迷いもあり、例えば子供を一人暮らしさせて生活費を仕送るという選択肢もあったわけで、こうした大きな意思決定の際にはプラスとマイナスとを天秤を掛けることになる。子供と私の通学・通勤時間短縮はプラス材料であるが、都内の地価は高く以前の住まいから1割ほど狭くなったというマイナス面もあった。それでも今のところ特段、後悔しているということはなく、それは事前にプラスとマイナスの要因を予め考慮して決めたから、つまり狭くなることはあらかじめ覚悟が出来ていたからでもあるのだろう。
さて、今回はワクチンのお話を取り上げる。新型コロナによる巣ごもり生活からの“生還” に恐らく最も期待されるのがワクチンの開発であろうが、期待が高まれば高まるほどリスクが見えにくくなるものである。恋は盲目、とでも言おうか。果たしてどれだけ予防効果があるのかというワクチンの“存在意義”は言うに及ばず、加えてその副反応、副作用がどの程度発生し、それはどの程度、重い症状なのだろうという点が見落とされがちになる。

社会が首を長くして待ちわびるワクチン開発がこれほどまでに時間が掛かる理由の一つもその毒性レベルの確認であって、料理のようにワクチンを「はい、出来ました」ということでそのまま市場に出すわけにはいかない。安定した品質で供給できる体制を整えることは様々な消費財共通の課題であるが、毒性の許容などという商品・サービスはワクチンや医薬品以外ではちょっと思いつかない(他にはふぐ料理、くらいだろうか)。期待と裏腹に、毒性の問題がこれまで何度となく社会問題化したという歴史が脳裏をよぎる。
ワクチンが市場に出たはいいが、例によって「こんなはずではなかった。」となりはしないだろうか。日本人は総じて心配性、リスクをとらない国民性などと揶揄されることが多く、疫学の視点で私もまた“心配性”になりかけている。