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第7回:クスリの科学(4)クスリの認可

2021年4月2日



“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム

「疫学と算盤(ソロバン)」 第7回:クスリの科学(4)クスリの認可


緊急事態

未だ国内ではコロナの感染拡大防止と経済活動のダメージ防止との間で緊急事態宣言を発出するとか停止するとか騒がしいのだが、それでも他国のようにロックダウン(都市閉鎖)という政策と比べたら平穏な社会生活を望む我々にとってマシだと言えるだろう。

それにしても緊急事態、といっても随分と振り幅が大きいものだ。昨年に発出された緊急事態宣言下では東京都内のレストランや商店が"準"ロックダウンの如くほとんど店を閉めていたし、オリンピックだけでなくJリーグもプロ野球も大相撲も開催が見合わされていた。

ところが、今年の緊急事態宣言下ではどうだろう。少なくとも日中の街の様子は、確かに平生時と比べれば人数も少ないのだろうが、それでもお店は開いているしエンターテイメントも観客動員を減らすなどしてどうにか開催している。どの辺りが緊急事態"的"なのだろうと思いつつ、巣ごもり生活の中にあっても前回の"不要不急"に該当するところの高校野球やサッカーワールドカップ予選は開催されており、その中継を見られることに幸せを感じている。

一方、日中の行事はさることながら、どうやら夜半の社会活動には行政としてそのリスクを抑えたい意向のようで、例えばプロ野球の開催についてはナイトゲームの開始時間を早めたり、延長戦が禁止されたりもしている。こうなってくると恐らく例年以上の引き分け試合が多発するのは間違いなく、そのことについてプロ野球ファンはどのように感じているのかなんてことを思ったりもする。



国内における2大人気スポーツであるサッカーと野球は特にその「引き分け」に関する許容度がまるで違っていて、サッカーファンは引き分け試合には慣れたものであろうが、野球ファンはやはりすこしばかりモヤモヤするのではないだろうか。何より野球発祥の地であるアメリカでは「Baseballは引き分けがない」という哲学のようであって、今のところ日本のプロ野球のような延長戦禁止といった策は聞こえてこない。恐らくそれはBaseballの存在意義にも関わることのようであって、そもそも本場アメリカでは屋根付きの野球場すら歓迎されず、屋外で試合を行い、引き分けはなく勝敗を、白黒を必ず決めるべきだということがBaseballの本質に関わることなのだろう。

クスリの本質とは

さて、前回までの3回では「クスリの科学」とタイトルしてクスリとは何ぞや、とクスリの歴史や現在地点を眺めてきたのだが、これは本コラム「疫学と算盤」の視点でいうなれば序章である。ここからは疫学に接近しデータに基づく適切な意思決定により-カンや経験ではなく-いかに病気から多くの人の命を救うのかという話に進んでいきたい。この展開の前後において、どちらもクスリの科学ということを問うているにも関わらず、これまでがより生理学的な、生命科学的な学問領域であったのに対して、これからは論理学、数理学、データサイエンス的であって、同じように「科学」を呼称してはいてもその"本質"は違ってくる。

本質、ということでいえばクスリの本質とは何だろう。私のような製薬企業で働く立場とは違って社会一般の視点から見たら今回のコロナ禍におけるワクチン開発や治療薬開発が何と遅いことだろうと思っているに違いない。ウィルスなるものの生態はご存じの通り1人から2人、2人から4人、4人から8人といったように等比級数的に広がる特性をもつことからして、開発が1日遅れることはそれによって幾人もの命を救えないということでもありその遅延は罪とすら思えてもくる。故に言うまでもなく一刻も早くワクチンや治療薬を世に出すべきではあるのだが、一方で「あわて者の誤り」についても看過出来ない面もある。具体的にいえば、あわてて承認したところで、そのワクチンは安定供給できるのか、異物が混入したりはしないのか、重篤な副作用、副反応はどの程度なのか等々。


その中にあってやはりそのワクチンが実際のところ「効く」のかどうか、これがおよそその存在理由に関わるところであり、「効かない」のであれば存在し得ないといえる。効かないならば安定供給体制が完備されようが、副作用が完全に0%であろうがもはや誰も欲しがらないのでそもそも存在することが出来ない。すなわちこれこそがワクチンの、治療薬の、本質である。クスリとして認可されるには品質の確保や安定供給体制完備もさることながら、「効く」ことを確認する工程が、大げさな話ではなくその存在理由を問う最重要なテストとして実施されるのである。ところで、その「効くことを確認する」とは具体的にどのようなことを指すのだろうか。「効くことが確認できた。」と、言葉でいえば簡単なことなのだが、何をもって確認できたとするのかについては、実は科学哲学ともつながる深い話なのである。

クスリが承認されるまで

深い話はさておき、現在の薬事行政として「効く」ことの確認を含む医薬品が承認されるまでの具体的な流れについて概観してみよう。

  1. 基礎研究のフェーズ これまで見てきたように何らかのヒトに「効く」のではないかということでクスリの候補にアタリをつける段階である。過去を概観したときのような下手な鉄砲策ではなく、昨今では人工知能の力を借りるなどして妥当な候補物質をかなり的を絞った形で時短にて化合できるようになったようである。さらには生物学的製剤に代表されるように創薬のアプローチそのものが多様化してきており、その専門性は従来のように一製薬企業ではまかないきれず、創薬技術を所有するベンチャー企業から製薬企業がその権利を譲り受けたり、あるいはそのベンチャー企業そのものを買収して完全子会社化したりといった動きもみられる。いずれにせよ、クスリ候補物質をスクリーニングするのがこの「基礎研究」と言われるフェーズである。

  2. 非臨床試験のフェーズ 基礎研究で得られたクスリ候補物質を動物に投与するなどする段階。単に毒性として耐えられるかどうかだけではなく、そのクスリ候補が体内に入った後、各臓器にどのように広がっていくか、何分後、何時間後、何日後に身体の中から出ていくかといった情報、あるいは物質としての品質や安定性などをテストするフェーズである。試験の目的に応じて薬効薬理試験、薬物動態試験、毒性試験等と呼称される。

  3. 臨床試験のフェーズ 非臨床試験をパスしたクスリの候補についていよいよヒトに投与してみるフェーズ。このフェーズはさらに大きく3つのフェーズに分かれている。 第1相臨床試験(PhaseⅠ) 健康成人に対してごく少量からクスリ候補を投与してみる試験。「効く」ことの確認よりもまずは許容できる毒性なのかどうか、あるいは動物を使った際の人間版としてどのように臓器に広がり(吸収・分布)、どのように体内から出ていくのか(代謝・排泄)などを見ることが主となる。「効く」ことに主眼はないので、基本的には当該の病気を患っている人である必要はない。 第2相臨床試験(PhaseⅡ) 一般的にはこの第2フェーズ、第2層臨床試験にて当該疾病を患っている患者さんにはじめて投与が試される。つまりここでようやくヒトに対して「効くかどうかの確認」がテストされる。ただし、第1相臨床試験と同様、あくまで少人数を対象とする。通常、クスリ候補の量を増やすことで「効く」可能性が向上する一方で毒性つまり副作用が発生する可能性も増えるため、どの程度の用量がベストなのかを確認するのもこのフェーズである。用量を増やしても効き目が変わらないということもある。 第3相臨床試験(PhaseⅢ) いよいよ多数の患者さんを対象とした、テストとしては最後のフェーズである。 本格的な意味で果たして「効く」のかどうかの確認はこのフェーズで行われる。

  4. 行政当局による審査のフェーズ 上記第1~第3相臨床試験を全てパスしたクスリ候補について、製薬企業は行政当局にクスリとして認められるかどうかを申請し、行政当局はそれを審査するのがこのフェーズ。行政官だけで審議することは通常なく、当該領域の専門医や薬剤疫学、生物統計の専門家が関わって審議される。ここで合格となればクスリとして認められ、世に出して良いということになる。

このようにみてきてもわかる通り、クスリの候補が実際にクスリとして認められるまでには随分と長い道のりがある。1つのクスリ候補がクスリとして認可されるという、その合格確率は数万分の1とも数十万分の1ともいわれ、通常10年以上を要する。掛かるコストもおよそ500億円といわれており、これを算盤(ソロバン)勘定するならば、世に出せた医薬品には通常、500億円以上の利益が出せなければ製薬企業としてはモトがとれない、企業として存続が危ぶまれるという計算となる。

効き目を確認する、とは何か

さて、表面的な手続きとしては前述の通りいくつものフェーズを乗り越えてようやっとクスリとして世に出てくるのであるが、その審査過程における「効くことが確認できる」とは一体、どういう意味なのだろうか。果たして「効く」とは誰に対してなのか。仮に私がその病気になったとして、どうして私ではないヒトで行った試験の結果をもってして、その未来の「私にも効く」ことが保証されるのか。読者諸氏はこの考えに共感される人も僅かにいるかもしれないが、いやいや、そんなに疑い深いのはどうだろうか、他の大人数のヒトたちで効いたのだったら、通常は自分に当てはめてみても効くと予想するのが妥当だろうと思う人が多勢だと思う。

ところが話はそんなに易しいものでもなく、例えば上記試験で投与されたヒトに日本人が一人も含まれていなかったらどうだろうか。もしあなたに腎臓や肝臓、心臓に基礎疾患があったとして、そのような人が一人もいなかったらどうだろうかと考えてみて頂くと、臨床試験で得られた結果をもって「私にも効く」といえるかどうかが少しばかり怪しくなってくるのである。実際の事例として下記をご覧頂きたい。

コナミティ筋注審査報告書(2021年2月12日医薬・生活衛生局医薬品審査管理課)
治療薬2回目接種後7日以降のCOVID-19発症に対するワクチンの有効性

*アメリカインディアン、アラスカ出身、アジア人、ネイティブハワイアン、その他の太平洋諸島人、多民族、または人種の報告なし


これはワクチンの有効性試験の実際のデータにおける全体成績(一行目)と、人種別にわけた成績を表にしたものであるが、皆さんはこの結果からもしご自身にこのワクチンが投与されたら一体どのくらいの有効率を期待するだろうか。全体としての95.0%だろうか、それともご自身がアジア人であれば74.6%を期待するだろうか。あるいはもし日本人に特化した数字があればそちらを最も信用するだろうか。性別や年齢に分けた集計結果があったらどうだろうか。こうしたいわば主観的な期待は科学の文脈でみたときに案外と複雑な問題を含んでいるのだが、それは次回に取り上げたいと思う。


哲学者サルトルは人間について「実存は本質に先立つ」とした。ヒトの本質、存在理由は何だろうかといえば十人十色の答えがありそうだが、それよりも私たちがこうして実存、生きているということがまず先にある。これはクスリの存在がまず本質であるところの「効く」が先にあって、本質が無ければ実存が無いのとは正反対である。

然るにヒトとして"実存"したいが故に、只今はワクチンやクスリの開発ほど差し迫った"必要至急"な社会活動は無いだろう。一方で、確かに高校野球もワールドカップも人類の存続にはどうやら関わりそうもなく、"不要不急"であることは確かである。ただ、いわば社会実験のようにして未だ不要不急の活動が後ろめたい空気の中で私たちは、その「不要不急」の中にこそ、生きることの意味合い、本質があるのではないかということに改めて気付いてしまった。さて、今日のプロ野球はどのチームが勝つだろうか。


(了) 第8回につづく


*審議結果報告書, PMDA website 医療用医薬品添付文書等検索 から

672212000_30300AMX00231_A100_2.pdf

*MRIC by 医療ガバナンス学会より津田重城氏論説

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