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第11回:臨床試験の倫理学

2021年8月14日



“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム

「疫学と算盤(ソロバン)」 第11回:臨床試験の倫理学


倫理に正解なし?! 冷たいコーヒー飲料をカフェで注文すると、プラスチックのストローにするか、それとも紙で出来たストローにするかと聞かれることがある。カフェオレとカフェラテの違いすらわからないような“ボーっと生きている”私にとって、心の準備なくこの問いに即答するのは難儀である。正直にいえば紙のストローは何だか段ボールを舐めているような嫌な味わいがあるし、ゆっくりと飲んでいたのではそのうち紙がふやけてきやしないかと気掛かりで、自分のペースで飲むことにも支障が出てくる。

それでも「あなたは地球環境のことをどれくらい真剣に考えていますか?」と詰問されたように感じられ、結局のところ必ず紙のストローを選択することになる。


もしかしたらコロナワクチンを接種するかどうかという選択肢を前にして、似たような感覚をもつ人もいるかもしれない。ワクチンの接種は自分自身のコロナ罹患や重篤化を防ぐという目的でそれを選ぶという理由とは別に、社会のために、つまり人に迷惑(自身を通じた感染のリスク増)を掛けたくないという思いからも選ぶ人が多いことだろう。

皆さんはどんな動機だろうか。本コラムを執筆している時点で私はワクチン“難民”であり、受け付けてもらった予約が先方の都合でキャンセルになったりしていて未だ接種出来ていないのであるが、私にとってワクチン接種の動機はこうした利己性と利他性の双方のミックスである。

こうしたお話は倫理学分野の課題だ。倫理学は哲学の一分野(道徳哲学)であり、哲学上の問い一般と同様、ハッキリと論理的な正解が導けない、存在しないという悩ましさがある。特に“正解主義”と揶揄される日本の教育現場とは相性が悪く、入学テストで道徳の本質を問う問題設計と、その対となる模範解答に対する得点化のアルゴリズムを簡単には作れそうにない。

「関ヶ原の戦いが起きたのは1600年である」のように紋切り型で正しい解答を準備出来ないのだ。それ故に日本では大抵の人が学生時代におよそキチンと履修しておらず、しっかりとした形で道徳哲学とは向き合っていない人がほとんどだろう。

そうであるにも関わらず、ようやく開幕した東京オリンピック開催までのドタバタ劇はどうしたことだろう。大会の直前までに企画運営の職務からこれまで何人もの関係者が退場を余儀なくされた。もちろん、その彼らが皆ギルティ(有罪)ということではなく、その多くは倫理に違反したからである。然るに私たちは特に何か明確な定義を持たない「倫理」なるものに、「これは正義だ」、「これは不正義だ」といった社会共通の価値観を目には見えない形で所有していることになる。それ故に倫理・道徳には正解がないとは言え、やはり小中高の教育の中で倫理的な不正義を減らすような教育が出来ないのだろうかと考えてしまう。

臨床試験の倫理的側面 前回、前々回のコラムでは臨床試験の骨格を形成する主たる要素として(1)倫理(2)統計学(3)盲検化と、3本柱で整理したうえでこのうち(2)(3)を概観したところであった。また、(3)盲検化という方策がそもそも日常の診療とは明らかに違うものであって、それ故に(1)倫理との相性が宜しくないという箇所で倫理についても触れたが、それだけでお話を終わらせるのはどうも忘れ物をしているような感覚がある。

実際のところヘルシンキ宣言 *1 には多くの箇条書きがあり、またこれは倫理学に「正解が無い」悲しさがあるせいか、幾度も改訂されてきた歴史がある。その意味ではどんなに倫理的側面を掘り下げたとしても、何れまた別の視点からこれは更新されるだろうし、数学とは違ってその“正解”は変わったりもすることだろう。こうしたことを踏まえたうえで、 今回取り上げる臨床試験の倫理的側面の考察については、あくまで私の一個人の、今という一時点でのフィルターを通した受け止め方であることを承知して頂けたらと思う。

インフォームド・コンセント ヘルシンキ宣言についてその骨格をなす概念として1つ挙げるとするならば、それは臨床試験に参加する人の「自己決定権」の確保に関する訴求だろう。これはヘルシンキ宣言が忌まわしき人体実験に象徴されるところの、有無を言わさぬ強制参加やそもそも試験に参加させていること自体を知らせていなかったといった種の医学系研究の反省から発しているので、当然といえば当然である。それ故に、この課題を解決するためのキーとなる具体策はその当人による了解を必ず事前にとるべきであること、そしてそれは途中で気が変わったならばいつでも撤回してよいことにせよ、ということになる。

より具体的には試験参加への「同意取得」という方策がとられるのであるが、日本医師会訳版ヘルシンキ宣言に度々登場する表現は「同意」ではなくカタカナ表記の「インフォームド・コンセント」である。つまり同意取得に際しては充分な説明(インフォームド)がまずなされなければならないのであって、よくあるインターネットサイトでの「同意ボタンをクリックする」というのとはニュアンスが違ってくる。およそ私たちは何ページもある面倒な説明文章をしっかり読んだ上で同意ボタンを押したりはしていないことからも明らかなように、「インフォームドする」というのはそのような生半可なものであっては達成したことにはならない。ましてや根拠も無く「そんなに心配されなくても大丈夫ですよ」といった口添え等は違反といえよう。


また第三者的な視点からすれば果たしてこのインフォームド・コンセントが実際にされたのかどうか、口頭だけの同意では証拠が残らないので担保が不十分となる。さらに懐疑的にみれば、仮に同意文書に署名や捺印がなされていたとしても、前述の通り「適切にインフォームドされた」ことの十分な証拠としては弱いという見方にもなるだろう。

加えて、被験者が例えば3歳の赤ちゃんであったり、認知機能に障害のある人であったりとなれば当人からの署名や捺印が実質上、意味をなさないこともある。こうした場合には代理人による同意が許されることになるのだが、今度はその代理人が誰でもよいというわけにはならないという課題が生じる。「同意をとる」と一口にいっても、これをヘルシンキ宣言に則ったインフォームド・コンセントに昇華することは簡単なハードルではないのである。

自己決定権とEstimand 自己決定権の尊重について被験者の立場にたてば、これは当然の権利であるが、一方で研究をデザインする側の立場に立つとこれほどの難題はない。何故ならば、途中で気が変わって試験参加から降りたり、あるいはもう一方の治療群に切り替えたいといった要望に応じたときにその症例の取り扱いをどうするのかが難しく、場合によっては当該の臨床試 験そのものが全く無意味なものになることもある。

具体的な例として既存薬100例と、新薬候補100例とを比べる臨床試験で考えてみよう。既存薬では半分しか有効性がみられず、つまり50例が有効、残りの50例が無効、有効率50%であったとする。一方の新薬候補はめでたく80%の有効率がみられたが、辛い副作用が100例全員に発現し、それに耐えられなかった50例を除く、治療完遂できた50例中の40 例で有効(=有効率80%)であったならば、この新薬候補は医薬品として承認してよいとするのかどうか。

既存薬では50人の人を救い、新薬候補では40人しか救えていないので負けているという見方もあるが、それでも80%の有効率は有意に既存薬に勝っているのだから承認してよい、とする見方もあるだろう。実際にはもっと様々な状況がある。こうした課題は以前紹介した企業のA/Bテスト、例えばAというサイトとBというサイトではどちらのサイトが人気があるだろうかを調べるといった社会実験では発生しない。

最近ではこうした諸問題を包括する概念としてestimandという用語が日本でも使われだしている。estimandを直訳すれば「見積もり」なのだが、ザックリいえば「観測したかったのに出来なかった情報をどう見積もるのか」問題である。ただ、この概念が適切に定義された形で日本に“輸入”されてきていないせいか、種々の文書上も未だに「estimand」のままでカタカナ表記の「エスティマンド」とすらされていない。真なる意味で“輸入”がされるにはもう少し時間が必要なようである。

被験者保護の視点 ヘルシンキ宣言一般原則8には「医学研究の主な目的は新しい知識を得ることであるが、この目標は個々の被験者の権利および利益に優先することがあってはならない」とあり、これは自己決定権の尊重とは少し異なる視点である。臨床試験の最中に発生した重篤なイベントについては、それが二重盲検ランダム化比較試験として行われていたとしたら、新薬候補群による副作用なのか、それとも対照薬(あるいはプラセボ)投与群で起きたことなのかすら判断することが出来ない。

盲検化というデザインの研究論理からすれば、いかなる事案が発生しようともどちらの群なのかわからないようにしておくことが大前提となるが、被験者保護の視点からみればこれは間違いである。即座にどちらの治療がなされている人なのかを確認するべきというのが被験者保護の視点からの「正解」となる(キーオープンといいます)。

また、研究の進捗をかねて研究の途中段階で解析等を行うといった、中間集計・中間解析を予定する臨床試験もあり、ここにもまた被験者保護の視点がある。すなわち、上述のようにもし仮に新薬候補群が既存治療群あるいはプラセボ群と比較して圧倒的に副作用リスクが高すぎるといった場合や、その正反対に圧倒的な有効性がみえたらそこで試験を終了してしまうという選択肢が予定されていることも多い。これまた被験者保護の視点からは至極当然のことではあるし、「圧倒的な有効性」の方は「嬉しい誤算」であって、社会的な視点でみてもそれだけサプライズな良薬は一刻も早く世に出すべきということにもなる。

研究倫理委員会 こうした種々の倫理的な課題について、キチンと対処されているのかどうかを懐疑的にみればキリがないが、かといって性善説一辺倒で実施を許容するのも適切ではないだろう。そこで提案される具体的な打ち手の1つが、倫理上の問題について当該の臨床試験案を精査する研究倫理委員会の設置である。この委員会を構成するメンバーについては、もちろん当該疾患領域の医療専門家や研究デザインの適切性をみる疫学専門家、生物統計専門家といった専門スキルへの言及だけではなく、本臨床研究に対して「中立な人だけで構成されているのか」という視点も重要となる。

誰しも“身内”となれば鉄のようにクールな判断が困難になりがちであって、その意味では研究実施者と同じ組織の勤務者ではその第三者性が疑われたりもする。故に組織の内部ではなく、外部に設置されている委員会であることが必然的に望まれる。

倫理指針 ヘルシンキ宣言は主に医師に対して表明されたものである。もちろん、医師で無いものはこれを無視して構わないというわけではなく、序文には「人間を対象とする医学研究に関与する医師以外の人々に対してもこれらの諸原則の採用を推奨する」とある。実際のところはこの精神を受け継いでいる倫理指針の記述を参考にするのが一般的である。

今年の3月(令和3年3月23日)にリリースされた「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」 *2 は従来別々であった「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」と「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」とを統合したものである。臨床試験を含む医学系研究を実施しようとする者が倫理を学ぶ場合、まずはこの指針およびガイドライン *3 の読了が求められる。


プラごみ 口の悪い人は、紙ストローの利用のように善行ではあっても成果がほとんどない行為を「大衆のアヘン」と称して、その自己満足感はかえって行わない方がマシだとも言う。確かに、心理学分野の研究ではヒトは善行を行った後には悪行を行う確率が高まることが知られている。これには難儀な仕事終わりの深酒やダイエット運動の後のスイーツの間食といった小さな“悪行”も含まれ、決して犯罪行為の誘発ということでもないことは断っておきたい。ただ、「善い行いをしよう」とする意志の総和は、選挙における「清き一票」と同様に社会を大きく動かす原動力になると確信するところでもあり、決して馬鹿に出来ない、想像を超えてかなりの成果が見込まれるものだと私には思えるのである。

ところで、ACジャパンが展開するところの浦島太郎ならぬ「プラ島太郎」というコマーシャルはご存じだろうか。龍宮城での舞い踊りがプラごみで台無しになる、そして「いま、本当におきているお話です」とナレーションされて終わるのだが、このセリフに「本当にはおきていないだろう」と突っ込みたくなるのは私だけだろうか。ここは正確に、「龍宮城の存在についてはさておき、プラごみの方は本当におきている話です」に訂正して頂きたい。そうでなければ龍宮城へ行ってみたくなるではないか(木更津?)。



用語解説:

*1 ヘルシンキ宣言(日本医師会訳)

*2「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」(本文)

*3「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針ガイダンス」

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